再び曹植詩のダブル・ミーニング

曹植の「浮萍篇」は、水に漂う浮き草から詠い起こし、
夫に離縁された妻の悲哀を詠ずる楽府詩です。

「浮萍」の語は、
曹植の別の詩「閨情」において「女蘿」と対を為し、
「寄松為女蘿、依水如浮萍」と詠じられていることは先日も述べました。
「閨情」詩もまた、「浮萍篇」と同じく、
表面的には夫婦間の離別を、妻の立場から悲嘆するものです。

さて、松に身を寄せる「女蘿」は、
『詩経』小雅「頍弁」に由来する表現で、
兄弟間の親密なつながりを強く想起させるものです。

一方、水に依る「浮萍」は、
王褒「九懐・尊嘉」(『楚辞章句』巻十五)にいう、
「窃哀兮浮萍、汎淫兮無根(窃かに浮萍を哀しむ、汎淫して根無きを)」に基づくもので、
そこには、君主に納れられず江湖の間を流浪する人の姿が二重写しになります。

こうしてみると、曹植の「浮萍篇」や「閨情」詩に、
夫婦間の決裂と、兄弟間、及び君臣間の齟齬とを重ねて読み取ることは、
それほど無理筋な解釈だとは言えないと判断することができます。
それは、作者が基づいた古典的作品の辞句と文脈から、
理の当然として導き出されるものです。

問題は、曹植がなぜ、
こうしたダブル・ミーニングの詩歌を、
その詩想をかたどる様式として必要としたかだと考えます。

2024年6月10日