浮き草が表象するもの

曹植「浮萍篇」は、棄婦の寄る辺なさを、浮き草から歌い起こしていました。
また、彼の「閨情」詩では、「浮萍」が「女蘿」と対で登場し、
主体性を持ちえない境遇にある妻を表象していました。

松にまつわる「女蘿」は、過日も述べたとおり、
第一義的には『詩経』小雅「頍弁」に由来する語で、兄弟関係を示します。
他方、同じこの語は、夫婦の間柄をも強く想起させます。
それは、『文選』巻29「古詩十九首」其八にいう、
「与君為新婚、兎絲附女蘿(君と新婚を為し、兎絲の女蘿に附くがごとし)」からです。

では、「浮萍」の方はどうでしょうか。
夫と離別した、あるいは夫に棄てられた妻の表象という意味合いは、
曹植作品以前、すでにこの語に備わっていたのでしょうか。

曹植「閨情」に見える対句「寄松為女蘿、依水如浮萍」は、
西晋の潘岳「河陽県作二首」其二にいう
「依水類浮萍、寄松似懸蘿(水に依ること浮萍に類し、松に寄ること懸蘿に似たり)」の
李善注に引用されていて、これは非常に早い例です。
ただ、潘岳のこの詩は、夫婦の決裂といったテーマを詠ずるものではありません。
そうした文脈で曹植「閨情」詩を引用する李善注は、
梁の江淹「雑体詩三十首」(『文選』巻31)其一「古離別」まで待たねばなりません。※

「浮萍」を、寄る辺なき妻の表象として用いる例は、
管見の及ぶ限り、曹植以前には見当たりません。
(すべての作品が伝存しているのではないことを踏まえる必要はありますが)
曹丕や何晏の作品に、「浮萍」の語が用いられている例はあるのですが、
それらは、このような意味において用いているのではありません。

こうした現象をどう見たものでしょうか。

2024年6月13日

※江淹「古離別」は、「所寄終不移(寄する所 終に移らず)」の代表格として「菟絲及水萍(菟絲及び水萍)」を挙げている。すると、李善は曹植「閨情」詩にいう「依水如浮萍」を、寄る辺なきものとは捉えていないことになる。「閨情」詩の解釈については再考を要する。