曹植「盤石篇」再考(承前)
曹植「盤石篇」の趣旨について、
曹海東氏は、従来の説が一様でないことに言及しています。
それなら、私がこの作品に分かり難さを感じるのも当然のことです。
そこで、この作品の言わんとするところを探るため、
まず、先行研究が本作品の制作年代をどう捉えているか、当たってみました。*1
曹植が都を離れた黄初年間と見るのは、朱緒曾、徐公持、趙幼文、曹海東の各氏、
曹植が父曹操の管承征伐に従った建安11年と見るのは、古直です。
古直の説だと、当時曹植は15歳となりますので、
伊藤正文氏も言うように、やや早期に過ぎるかもしれません。
ただ、その筆致に見える若々しい勢いからすれば、
本詩を建安年間の作と捉える古直の説には、何か看過できないものを感じます。
そこで、この間の曹植の動向を再確認してみたところ、
建安17年から翌年にかけて、彼は曹操の呉への出兵に従軍しています。*2
もし「盤石篇」をこの時の作だとするならば、
出征時、曹植は21歳で、本詩を作るだけの素養は十分に備えていたはずです。
(ちなみに、同年春、曹氏兄弟は銅雀台に登って賦を作っています。)
また、この前年の建安16年、曹植は平原侯に封ぜられています。
平原は、黄河を隔てて泰山の北西に位置していますが、
東南の方角から見れば、同じ方面に属すると言えなくもないかもしれません。
また、実際に平原に赴いてはいないとはいえ、意識の底にそれがあったかもしれません。
「盤石篇」がもし建安17年の作であるとするならば、
その内容、表現、筆致の各方面から見て、それが最も妥当だと感じられます。
もっともゆるぎない確かな根拠があるわけではありません。
2025年11月1日
*1 朱緒曾『曹集考異』(金陵叢書丙集之九)巻6、徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.348、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.262、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.257、古直『曹子建詩箋』巻3、伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)p.152を参照。なお、古直の説は、丁晏『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)p.73の上欄外の記述を参考にしたと見られる。
*2 張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.122、124―125を参照。