昨日の追補説明(厳島八景と南京八景)

昨日、次のようなことを述べました。

厳島八景は、男山八景を選定した柏村直條が事実上の選定者だが、
柏村直條は、男山八景を選定するに当たって、南京八景を意識しただろう。
そして彼は、厳島八景を選定するに当たって、南京八景を念頭においていたのではないか。

別の言い方をすれば、
厳島八景には、男山八景を経由して、南京八景の美意識が流入しているのではないか、
ということです。

なぜこのように想像したのか、以下にもう少し詳しく述べてみます。
(もう一度、こちらをご覧いただければ幸いです。)

八幡八景(男山八景)は、南京八景を参照していると思われます。
南京の「雲井坂雨」と、八幡の「猪鼻坂雨」、
南京の「佐保川蛍」と、八幡の「放生川蛍」を対比すれば、
そのことは明らかだと言えます。

「雨」なら、八景の本家である瀟湘八景にもありますが、
そこには、「坂」と組み合わせる発想はありません。
有名な近江八景や金沢八景も、瀟湘八景を踏襲する「夜雨」です。
他方、前述のとおり、八幡八景と南京八景とは「坂雨」を共有しています。

また、「蛍」を愛でる発想も、瀟湘八景にはありません。
近江八景、金沢八景も同様です。
ところが、南京八景と八幡八景とは揃って「蛍」に注目し、
しかも、「○○川の蛍」という言葉の組み合わせ方でも一致しています。

こうしてみると、八幡八景が南京八景を意識して選定されたことはほぼ確実でしょう。
「蛍」は、厳島八景にも「滝宮水蛍」と踏襲されています。

さて、厳島八景が南京八景を念頭に置いていると判断されるのは、

まず、南京の「春日野鹿」と、厳島の「谷原麋鹿」、
そして、南京の「三笠山雪」と、厳島の「御笠浜鋪雪」という景目からです。

「鹿」は、「瀟湘」のほとりでも「近江」や「金沢」でも目につきませんが、
奈良と宮島には、たしかに群れをなして生息しています。
けれども、それを景物として取り上げるかどうかは美意識の問題です。
先行する南京八景にあることは、厳島八景のひとつに選ぶ上で後押しとなったでしょう。

「雪」の方は、さらに明確です。
厳島に降り積もる雪は、なにも「御笠浜」に限らなかったはずですが、
奈良の「三笠山」に降る雪が、かの八景の一要素にあるならば、
その「雪」を「御笠浜」に降らせたことも納得できます。
厳島の「御笠」も南京の「三笠」も、同じ音「ミカサ」ですから。

なお、柏村直條が厳島八景のうちの十題を選んだのは、
正徳二年(1712)の夏五月二十二日に恕信の依頼を受けてから、
同年六月十八日、宮島を離れるまでの、約一ヵ月足らずの間ですが、*
厳島八景の中には、四季折々の美観が組み入られています。
眼前の風景を写実的に感受して選んだのではなく、
実景に、既存の美意識を組み合わせて選定したことは明白です。

2023年3月16日

*朝倉尚「「厳島八景」考―正徳年間の動向―」(『瀬戸内海地域史研究』2号、1989年)に翻刻された柏村直條「厳島八景和歌(「柏」軸)」の跋文を参照。