注釈しにくい表現

曹植作品の訳注稿が遅々として進みません。
どこまで注釈を付けたものか、いちいち迷ってしまうからです。

たとえば、「妾薄命」二首(其二)の3・4句目、

  華灯歩障舒光  華灯 歩障に光を舒(の)べ、
  皎若日出扶桑  皎として日の扶桑より出づるが若し。

語釈として、「華灯」「歩障」「扶桑」は必須です。
けれども、個々の語句をつないでいる措辞、
あるいはそれらの語句を通底して流れている発想に、
なにか作者が思い浮かべていたものがありそうな気がしてなりません。

「皎若」といえば、
古楽府「皚如山上雪(白頭吟)」(『玉台新詠』巻1)にいう、
「皎若雲間月(皎たること雲間の月の若し)」がまず想起されます。
けれども、こちらは月、曹植「妾薄命」では日(太陽)でした。

曹植本人の「洛神賦」(『文選』巻19)には、
「皎若太陽升朝霞(皎たること太陽の朝霞より升るが若し)」とありますが、
李善注には、「皎若」に対して特に何も指摘されてはいません。

ところで、同じ『文選』巻19所収の宋玉の「神女賦」では、
女神の現れた様子が次のように描写されています。

  其始来也、耀乎若白日初出照屋梁、
  其少進也、皎若明月舒其光。
   其の始めて来たるや、耀乎として白日の初めて出でて屋梁を照らすが若く、
   其の少しく進むや、皎たること明月の其の光を舒ぶるが若し。

この「神女賦」では、「皎若」の語がかかるのは「明月」に対してですが、
続く「舒其光」という表現は、曹植「妾薄命」にいう「舒光」との関連性を感じさせます。
そして、その前の句で喩えに用いられているのは、昇ったばかりの白日です。
もしかしたら曹植は、「神女賦」の前掲二行分をあわせて踏まえているのでしょうか。

もしそうだとすると、
先に示した曹植詩の二句は、ただ単に灯火の様子を描写しているだけなのではなく、
なにか非常に艶麗な雰囲気を醸し出していると感じられるようになります。
なお、描かれているのは、日が落ちた後の「蘭室洞房」で繰り広げられる宴席の情景です。

書いているうちに、宋玉「神女賦」も注に入れた方がいいように思えてきました。

2023年3月23日