楽府詩中に見える大仰な表現
曹植「盤石篇」の終盤、次のような表現が現れます。
昨日言及した、孔子に問う結びの直前です。
仰天長太息 天を仰いで長く大きなため息をつき、*1
思想懐故邦 故郷への思いをつのらせる。
この上の句を、当初はありふれた表現だと思っていました。
ところが、なんとなく気になって調べてみると、
「仰天」と「太息」とを併せて用いる例はそれほど多くはなく、
それらには、次に示すとおり、ある種の偏りが認められるように思います。
『史記』巻六十九・蘇秦列伝に、
「於是韓王勃然作色、攘臂瞋目、按剣仰天太息曰(是に於いて韓王は勃然として色を作し、臂を攘(まく)り目を瞋(いから)せ、剣を按(おさ)へ天を仰ぎて太息して曰く)」、
同巻八十六・刺客列伝(荊軻)に、
「於期仰天太息流涕曰(於期は天を仰ぎて太息し涕を流して曰く)」、
『呉越春秋』勾践入臣外伝に、
「越王仰天太息、挙杯垂涕、黙無所言(越王仰天太息、挙杯垂涕、黙無所言)」と。
これらの句における「仰天太息」は、
腕まくりして目を怒らせる、涕を流すといった激越な感情表現を伴っています。
そして、その前後には登場人物たちの科白が連ねられています。
こうした表現的特長は、芝居の脚本のようなテキストを想起させます。
もし、曹植が意識的に「仰天」と「太息」とを結びあわせたのなら、
「盤石篇」を、芝居めいた雰囲気を持つ作品として捉える必要があるでしょう。
楽府詩も芝居も、漢代の宴席で行われていた文芸であり、*2
両ジャンルの親和性はもともと高いと言えます。
もっとも、本詩における「仰天」は、
その直前にいう「中夜指参辰(真夜中に星々を指さして)」云々を受けるものであり、
それにたまたま「太息」が連なっただけだという可能性も大いにあります。
このことは、後日、改めて考え直してみたいと思います。
2025年11月6日
*1「太」字、丁晏『曹集詮評』は「歎」に作る。今、宋本、『楽府詩集』巻64に従って改める。
*2 漢代の宴席では、五言詩、楽府詩、身振り手振りを伴う語り物や演劇のような様々な芸能が行われており、場を共有するそれらが相互に乗り入れて生まれた、たとえば詠史詩のような新ジャンルもある。拙論「五言詠史詩の生成経緯」(『六朝学術学会報』第18集、2017年)を参照されたい。
曹植「盤石篇」に登場する孔子
曹植は「盤石篇」の結びで、孔子に言及して次のように詠じます。
乗桴何所志 いかだに乗って どこを目指しておられるのか。
吁嗟我孔公 ああ、我が孔公よ。
この二句は、『論語』公冶長に記された次の故事を踏まえています。
子曰、道不行、乗桴浮于海。従我者其由与。
子路聞之喜。孔曰、由也好勇過我、無所取材。
先生(孔子)がおっしゃった。
「世の中に道が行われないのならば、桴(いかだ)に乗って海に浮かぼう。
私に付き従う者は、それ由(子路)であろうか」と。
子路はこれを聞いて喜んだ。すると先生がおっしゃることには、
「由は、わたしよりも勇を好むが、桴の材料を取るすべを持たないね」と。
「盤石篇」は、「乗桴」という語と孔子とをあわせて用いている点で、
前掲の『論語』を踏まえると見て間違いありません。
ここで、本詩にいう「我が孔公」を、
曹植が付き従っている人物、曹操と比定してはどうでしょう。
そして、『論語』で孔子に付き従っていた子路に、曹植を重ねてみます。
すると、勇気を奮って従軍したはいいけれど、
逆巻く荒波にもまれて肝をつぶし、帰郷への思念を募らせ、
統帥者たる曹操に、先行きへの不安感をぶつける曹植の姿が現れます。
それは悲壮感というより、そこはかとない諧謔を漂わせているかのようです。
なお、ここでは現実との接点を持たない完全な虚構は想定していません。
2025年11月5日
曹植「盤石篇」に現れる地名
以前、こちらに書いたことの続きです。
曹植「盤石篇」には、後半、地名を含む次のような句が現れます。
南極蒼梧野 南のかた蒼梧の野を極め、
游盼窮九江 游盼して九江を窮む。
「蒼梧」「九江」とは、どのあたりを指しているのでしょうか。
それ以上に、本作品はなぜ、こうした地名に言及しているのでしょうか。
調べてみて、次のような考えに至りました。
「蒼梧」は、現在の広西壮族自治区に当たる地で、
従軍兵士の苦労を詠じた相和「東光乎」(『宋書』楽志三)にも見える、
前漢の武帝が、越を平定して設置した郡のひとつです(『漢書』武帝紀・地理志下)。
「九江」は、現在の安徽省で、淮水と長江に挟まれたあたりの地域を指すようです。
『尚書』禹貢に「九江孔殷(九江 孔(はなは)だ殷(あた)る)」とあり、
その具体的な位置については、注釈者によって諸説があるようですが、
曹植が生きていた頃の人々がいう「九江」とは、
『三国志(魏志)』武帝紀の裴松之注に引く『魏武故事』所載の「己亥令」に、
「袁術僭号于九江(袁術は九江に僭号す)」とあり、
また、阮瑀「為曹公作書与孫権」(『文選』巻42)にもこの地名が見えることから、
上述のように見て差し支えないと判断されます。
なお、『続漢書』郡国志四には、揚州に属する地として九江郡が記されています。
こうしてみると、本詩における「蒼梧」や「九江」は、
どこか軍事的な色を帯びた地名であるように感じられてなりません。
それは、直前に見える、荒波を越えてゆく航行の描写とも響き合うものです。
この見通しの当否については、
本詩を最後まで読みとおした後に、再び検討したいと思います。
2025年11月4日
後世から遡る思想研究
昨日紹介した出石誠彦氏の論文に、
考察の方法に関する、非常に本質的なことが記されていました。*
それを自分なりに要約すればこのような内容です。
ある思想が、様々な段階を経て、相当発達した形にたどり着いたとして、
その原初的なかたちや、発達した形に至る過程がすべて記録されているとは限らない。
古い時代には十分な記録が無かったり、
あるいは、その過程に属するものや発達した形の片鱗が、
当の時代ではなく、後世になってはじめて書き残される場合もある。
それゆえ、ある思想の発達経緯を明らかにする上で、
後世の記録に拠って考察するという方法が許されるべきであろう。
特に、中国古代の神話や説話といった分野ではそうした試みが必須である。
まったくそのとおりだと思います。
このことを、私はたとえば曹植「鼙舞歌」を読む中で感じました。
本作品中に現れた、広く庶民をも包摂する基盤的感情を探ろうとしたとき、
古代資料には断片的にしか現れていない故事や思想が、
後世の、たとえば唐代の敦煌変文などに認められる例が少なからずあったのです。
このことは、この雑記でも折に触れ書いてきたことではありますが、
今年五月に行った口頭発表の要旨と資料も添付します。
2025年11月3日
*出石誠彦『支那神話伝説の研究(増補改訂版)』(中央公論社、1973年)p.341を参照。
地下世界の大亀
曹植「盤石篇」を少しずつ読み進めています。
その中で、突風に吹き上げられて一挙千里と上昇した人はこう言います。
経危履険阻 危うい険しい難所を越えてゆき、
未知命所鍾 いまだ生きた心地がしない。
常恐沈黄壚 常々不安なのは、黄泉の国に沈み、
下与黿鼈同 地下で大きなすっぽんと同じくなることだ。
この「黿鼈」になんとなく既視感があって、思い当たるところを確認しました。
それは、かの馬王堆1号・3号漢墓出土の「昇仙図」の下方、
交差する大魚の上に乗り、白い台(大地)を持ち上げて支える力士の姿です。*1
曽布川寛氏の説によると、
古代神話で大地を支えているとされた大亀の鼇が、
いつしか人間の姿を取るようになり、
その不合理を補うため、彼を大魚に乗せたのだろうとのことです。*2
出石誠彦「上代支那の「巨鼇負山」説話の由来について」は、
『楚辞』天問に「鼇負山抃(鼇は山を負ひて抃ず)」と見えているこの古代神話について、
非常に広い範囲の文献に当たって展開の過程を明らかにしようとされています。*3
曹植「盤石篇」に言及された大亀は、
『楚辞』から直接的な影響を受けたものではないだろうと思われます。
両者間に、表現面での類似性は認められませんので。
彼は、当時の人々に当たり前に共有されていたこの伝説を、
息をするように取り込んだのでしょう。
2025年11月2日
*1 『世界美術大全集 東洋編2 秦・漢』(小学館、1998年)p.108、113の図版、及びp.347―350の曽布川寛氏による作品解説を参照。
*2 曽布川寛『崑崙山への昇仙 古代中国人が描いた詩語の世界』(中公新書、1981年)p.119―125を参照。
*3 出石誠彦『支那神話伝説の研究(増補改訂版)』(中央公論社、1973年)p.325―343収載。初出は、1933年8月市村博士古稀記念「東洋史論叢」。
曹植「盤石篇」再考(承前)
曹植「盤石篇」の趣旨について、
曹海東氏は、従来の説が一様でないことに言及しています。
それなら、私がこの作品に分かり難さを感じるのも当然のことです。
そこで、この作品の言わんとするところを探るため、
まず、先行研究が本作品の制作年代をどう捉えているか、当たってみました。*1
曹植が都を離れた黄初年間と見るのは、朱緒曾、徐公持、趙幼文、曹海東の各氏、
曹植が父曹操の管承征伐に従った建安11年と見るのは、古直です。
古直の説だと、当時曹植は15歳となりますので、
伊藤正文氏も言うように、やや早期に過ぎるかもしれません。
ただ、その筆致に見える若々しい勢いからすれば、
本詩を建安年間の作と捉える古直の説には、何か看過できないものを感じます。
そこで、この間の曹植の動向を再確認してみたところ、
建安17年から翌年にかけて、彼は曹操の呉への出兵に従軍しています。*2
もし「盤石篇」をこの時の作だとするならば、
出征時、曹植は21歳で、本詩を作るだけの素養は十分に備えていたはずです。
(ちなみに、同年春、曹氏兄弟は銅雀台に登って賦を作っています。)
また、この前年の建安16年、曹植は平原侯に封ぜられています。
平原は、黄河を隔てて泰山の北西に位置していますが、
東南の方角から見れば、同じ方面に属すると言えなくもないかもしれません。
また、実際に平原に赴いてはいないとはいえ、意識の底にそれがあったかもしれません。
「盤石篇」がもし建安17年の作であるとするならば、
その内容、表現、筆致の各方面から見て、それが最も妥当だと感じられます。
もっともゆるぎない確かな根拠があるわけではありません。
2025年11月1日
*1 朱緒曾『曹集考異』(金陵叢書丙集之九)巻6、徐公持『曹植年譜考証』(社会科学文献出版社、2016年)p.348、趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.262、曹海東『新訳曹子建集』(三民書局、2003年)p.257、古直『曹子建詩箋』巻3、伊藤正文『曹植』(岩波・中国詩人選集、1958年)p.152を参照。なお、古直の説は、丁晏『曹集詮評』(文学古籍刊行社、1957年)p.73の上欄外の記述を参考にしたと見られる。
*2 張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)p.122、124―125を参照。
曹植「盤石篇」再考
過日、曹植「盤石篇」に詠じられた蓬には、
過去を悔いる人のイメージが重ねられているかもしれないと述べました。
ところが、本作品を読み進めるにつれて、
この見通しには再考が必要だという思いが募ってきました。
王朝の中枢から切り離されたことへの悲嘆ばかりか、
この現在の境遇は、かつての自身の振る舞いが招き寄せたのだとする、
そんな内省的な人物像が、本作品の中盤以降には姿を現すことがないのです。
却って目を奪われるのは、広大な海浜の情景を描写する勢いのある筆致です。
切り立つ岩肌、どうどうと轟音を上げて打ちつける水、
水辺を埋め尽くす多彩な輝きを放つ貝、逆巻く波、蜃気楼、巨大な鯨、
そして、大夫としての舟を仕立て、宝物を探し求めて海に漕ぎ出す人物の姿です。
この人物は、吹き上げる風に乗って帆を掲げ、
「一たび挙がれば必ず千里」ですが、
“一挙千里”という表現は、
漢の高祖劉邦の楚歌(『史記』巻55・留侯世家、『漢書』巻40・張良伝)に、
「黄鵠高飛、一挙千里(黄鵠 高く飛び、一たび挙がれば千里)」、
『韓詩外伝』巻6に記された、晋の平公に対する船人盍胥の科白の中に、
「夫鴻鵠一挙千里、所恃者六翮爾(夫れ鴻鵠は一挙千里、恃む所は六翮のみ)」
といった例が挙げられるほか、
曹植自身の若い頃の作「与楊徳祖書」にも見えています。
なお、「一挙」と「千里」を併せた用例は、曹植ではこの二箇所だけです。
これは今のところ印象に過ぎないですが
本詩の中盤以降、詠じられた言葉に勢いがあって、
失意の底にある人物の描写としては何かそぐわないような感触があります。
本詩はいったい何を言おうとしているのか。
そのことを明らかにする上で、制作年代の問題は避けて通れそうもありません。
2025年10月31日
「前録自序」の成立年代
昨日に続いて、曹植の「前録自序」についてです。
姚振宗は、これを建安年間に記されたものと捉えていました。
この文章の内容を、曹植「与楊徳祖書」と楊修「答臨淄侯牋」との往還に重ね、
「前録自序」にいう「刪定」は、曹植から楊修に依頼されたものだと見てのことです。
これに対して趙幼文は、曹植が自身の作品集を編んだのは晩年であり、
「前録自序」の書かれたのもその時だとしていました。
この問題に関して、以下に別の視点から推測してみます。
その視点とは、「前録自序」における「秋蓬」という語の用い方です。
今、この文章の前半を句ごとに改行して示せば次のとおりです。
(過日引用した文章はこの後に続きます。)
故君子之作也 それゆえ、君子の作は、
儼乎若高山 高く聳える山のように崇高で、
勃乎若浮雲 湧き起こる雲のように勢いがあり、
質素也如秋蓬 生地のままのところは秋の蓬のようであり、
摛藻也如春葩 美しい言葉が敷き広げられるさまは春の花のようであり、
氾乎洋洋 満ち満ちた水のように果てしなく広がり、
光乎皜皜 白々と清らかに光り輝いて、
与雅頌争流可也 『詩経』の「雅」「頌」と正統性を競うこともできる。
ここに言及された秋の蓬は、
春に咲き誇る花と並んで、君子の作の辞句の美しさを形容しているのであって、
そこには、根を失い転々とさすらうものの影はありません。
このような蓬のイメージは、
「吁嗟篇」や「雑詩六首」其二に詠じられたそれとはかけ離れています。
後半生の苦難を経た曹植に、
はたして前掲のような「秋蓬」を詠ずることができたかどうか。
人の気分は時々刻々と移ろっていくものですから、
どんな境遇にあっても、時には美しく柔らかなイメージを抱き得るとは思います。
けれども、一旦ある体験を経た者には、
ある事物に対して以前と同じイメージを持ち続けることは困難だと考えます。
もう二度と若い頃と同じ感受性で物事を見ることはできない。
そのように考えていくと、「前録自序」は、
まだ挫折を知らない若い頃の曹植によって書かれたように思われてなりません。
2025年10月30日
曹植集の刪定
昨日言及した曹植「前録自序」には、
自身の作品集の刪定について述べられていました。
このことについて、
清朝の姚振宗『隋書経籍志考証』(二十五史補編)は、
巻三十九之三、集部二之三、「魏陳思王曹植集三十巻」の項で、
「前録自序」の全文を引いた後に、次のような考証を付記しています。
今、その原文と通釈とを示します。
案伝注引典略、臨淄侯植与楊修書云、今往僕少小所著辞賦一通相与。修答書云、猥受顧賜、教使刊定。似即此前録、嘗以属楊修審定者。時為建安十九年、徙封臨淄之後事也。
案ずるに、『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『典略』にこうある。臨淄侯曹植の「楊修に与うる書」(『文選』巻42)に「今、私が年少のころから著した辞賦一束をお送りいたします」といい、楊修からの返答の書簡「答臨淄侯牋」(『文選』巻40)に「みだりに目を掛けていただき、文集の刪定を命ぜられました」とある。この「前録」は、かつて楊修に文集の修定を依託したもののようである。時に建安十九年、曹植が(平原侯から)臨淄侯に遷ってから後のことである。
たしかに姚振宗の指摘するとおり、
曹植「与楊徳祖書」と楊修「答臨淄侯牋」との往還の間には、
楊修によって、曹植の作品集の刪定が為されたらしきことが垣間見え、
そうして成ったものが、曹植の自序が伝わる「前録」なのだろうと納得されます。
「前録」とあれば「後録」もあったと思われますが、
もし、当時の別集が、後の『文選』等と同様な構成を取っていたならば、
「前録」に辞賦作品、「後録」に詩歌、文章が収載されていたのかもしれません。
姚振宗にこのような考察のあることを教えてくれたのは趙幼文ですが、*
趙幼文氏自身は、姚振宗の説に疑義を呈しています。
曹植は「前録自序」で、自ら作品の刪定を行ったと記しており、
それは必ずしも楊修とは関係がないし、史実を伝える根拠にも乏しい、
というのがその主な理由です。
そして、曹植が自ら目録を作成し、序文を書いたのは晩年に違いないとしています。
2025年10月29日
*趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)p.435を参照。
曹植における辞賦の位置
曹植作品における「蓬」の表象を概観しようと、
彼の全作品からこの語を用いるフレーズを拾い上げていて、
たまたま、曹植の辞賦文学に対する姿勢を示す、次のような句に遭遇しました。
「前録自序」(『曹集詮評』巻8、『藝文類聚』巻55では「文章序」)に、
余少而好賦、其所尚也、雅好慷慨。所著繁多、雖触類而作、然蕪穢者衆。故刪定別撰、為前録七十八篇。
……わたしは少年の頃から賦を好み、その尊ぶものについては、平素から慷慨しつつ朗誦することを好んだ。自身が著したものは大量にあって、様々な事物に広く触れて作ったとはいえ、雑然と乱れているものが多い。だから、余計なものを削って本文を定め、分類して編集し、前録七十八篇とした。
とあるのがそれです。
実は、このフレーズについてはすでに言及したことがあったのですが、
そのことをすっかり忘れていました。
そしてその時は、この文章が曹植の辞賦観を明示していることに目が留まりませんでした。
なお、当時の読みに少し疑問を感じたので、ここでは修正したものを記しています。
「曹植作品訳注稿」としてはまだ取り上げていません。
さて、先日、曹植「与楊徳祖書」にいう「辞賦小道」について、
このことを主張するのがこの文章の趣旨ではないし、
まして彼の基本的文学観がこうであるわけではないと述べました。
その証左として、この「前録自序」を挙げればよかったと今にして思います。
ちなみに、『文選』巻42所収「与楊徳祖書」に「僕少小好為文章」とあるところ、
『三国志(魏志)』巻19・陳思王植伝の裴松之注に引く『典略』では、
「僕少好詞賦」に作っています。
これだと、前掲「前録自序」と同じ趣旨となります。
2025年10月28日