学術論文

50 曹氏兄弟と魏王朝   単著 令和5年(2023年)9月 大上正美先生傘寿記念三国志論集(汲古書院) pp.29―51 魏の文帝曹丕は,弟の曹植をひどく冷遇したとされている。これに対して本稿は,『三国志』裴松之注に引く『魏略』等の信頼すべき史料,及び曹植自身が書き残した詩文に依拠して,曹氏兄弟の関係性を洗い出し,曹植を窮地に追い込んだものを究明した。それは,朝廷の中枢に位置する曹丕その人の意向ではなく,皇帝の意向を先回りして汲むことにより,自身の社会的位置を引き上げようと企む者たちであったことを明らかにした。
49 宮島における平賀周蔵の交遊と詩作   単著 令和5年(2023年)3月 宮島学センター年報 第6号 pp.5―14 江戸時代の広島藩の地誌『芸藩通志』に,宮島を詠じた詩が最も多く収録されているのは,安芸の漢詩人平賀周蔵である。本稿では,彼の詩のうち,特に「夏日,陪滄洲先生遊厳島,過飲壺中菴」を取り上げて精読し,それを,関連すると見られる彼の他の詩,及び播磨の儒者赤松滄洲による平賀周蔵『白山集』序と照らし合わせることによって,詩中に登場する人物を比定し,宮島における彼の交遊の一端を明らかにした。
48 黄初年間における曹植の動向   単著 令和5年(2023年)3月 県立広島大学地域創生学部紀要 第2号 pp.93―104 曹植は,兄の曹丕が父曹操の跡を継ぎ,後漢王朝の禅譲により魏の文帝として即位して以降,その境遇が一変した。ところが,この黄初年間における曹植の足跡には,今も不明瞭な点が多い。本稿は,『三国志(魏志)』陳思王植伝の記述に,曹植自身による「責躬詩」「黄初六年令」等の作品を重ね合わせることによって,この間の彼の動向を究明しようとしたものである。これにより,曹植文学の転換点をさぐる糸口が与えられたと言える。
47 曹植文学の画期性―阮籍「詠懐詩」への継承に着目して― 査読付 単著 令和4年(2022年)6月 中国文化 第80号 pp.3―16 曹植文学は,後世の文学に大きな影響を及ぼしたが,本稿はその中でも,阮籍「詠懐詩」中に見える,権力者に媚びへつらう人を形容する「磬折」という語が,曹植「箜篌引」に由来することを指摘した。その上で,阮籍が曹植の言語表現を受けとめ,深め,それに新たな意趣を加えたのは,曹植への共感と敬意が根底にあったこと,そして,このような言語表現の授受の中に,現代でも通用する「文学」の成立を見ることができると論じた。
46 曹植における「惟漢行」制作の動機   単著 令和4年(2022年)3月 県立広島大学地域創生学部紀要 第1号 pp.145―157 曹植の「惟漢行」は,曹操の相和歌辞「薤露・惟漢二十二世」に基づいて作られた楽府詩である。ところが,曹植にはもう一つ,曹操の「薤露」に連なる楽府詩「薤露行」がある。曹植はなぜ二度までも曹操「薤露」に由来する歌辞を作ったのか。本稿は,曹植「惟漢行」の主題とその成立時期を明らかにし,魏の宮廷歌曲である曹操「薤露」に新歌辞をかぶせることの意味を押さえた上で,曹植における「惟漢行」制作の動機を究明したものである。
45 元白交往詩初探―白居易「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」詩を起点として―   単著 令和2年(2020年)10月 中唐文学会報 第27号 pp.1―13 元稹に宛てた白居易の詩「八月十五日夜,禁中独直,対月憶元九」を起点に,青壮年期の二人の間で交わされた詩文の精読を通して,お互いを思う心情の推移を細密に浮き彫りにした論。左遷を未だ知らない時期の白居易の詩が,貶謫の境遇にある元稹の心情を波立たせたこと,その白居易の詩語は,実は前年に作られた元稹詩を踏まえるものであったこと,後に,左遷を経た白居易と元稹との間で,友情が一層深められていることを指摘した。
44 曹植《七哀詩》与晋楽所奏《怨詩行》―献給曹植的鎮魂歌― 査読付 単著 令和2年(2020年)6月 楽府学 第21輯(社会科学文献出版社) pp.265―275 学術論文43の中国語版。翻訳は,侯仁鋒・徐亜文両氏による。楽府学会第4回年会・第7回楽府詩歌国際学術研討会での口頭発表の原稿に,若干の追補修正を加えて成ったものである。
43 晋楽所奏「怨詩行」考 ―曹植に捧げられた鎮魂歌―   単著 令和元年(2019)9月 狩野直禎先生追悼三国志論集(汲古書院) pp.135-157 西晋王朝で演奏された宮廷歌曲の一つに,楚調「怨詩行」がある。この楽府詩は,曹植「七哀詩」の辞句に基づきながら,幾つかの点で本辞を大きく改変している。では,西晋王朝の人々はなぜ,曹植のこの詩を取り上げて,改変の手を加え,宮中の宴で演奏したのか。本稿は,この謎を解明しつつ,晋楽所奏「怨詩行」は,魏の陳思王曹植,及び西晋の武帝の弟司馬攸に捧げられた鎮魂歌である,との解釈が成り立つ根拠を示したものである。
42 五言詠史詩の生成経緯 査読付 単著 平成29年(2017)3月 六朝学術学会報 第18集 pp.1-18 五言詩史上,早い段階で,詠史詩というジャンルが誕生した経緯を究明した論。その濫觴である後漢の班固の作品,及び漢末の建安詩人たちの作品を取り上げ,その題材の出自や制作情況を探りながら,五言詠史詩は,漢代の宴席という場で,五言詩と,語り物文芸として演じられていた歴史故事とが出会って生れたものだとの推論を示した。更に,建安文壇に至って,宴席での談論を取り込んだと思しい詠史詩も新たに生れたことを論じた。
41 『魏略』の撰者,魚豢の思想   単著 平成28年(2016)9月 狩野直禎先生米寿記念三国志論集(汲古書院) pp.223-242 『三国志』裴松之注に引かれて断片的に伝わる『魏略』について,この私撰の歴史書を一種の著作物と捉え,そこに撰者魚豢の思想を浮かび上がらせた試論。『魏略』の編纂が,官撰の国史『魏書』とほぼ同時期であったことを指摘した上で,伝に付された論評の内容,人物の生き方によって分類する立伝方針,無名の人々の足跡を克明に記す記述姿勢の中に,門閥貴族社会の閉鎖性に屈せず,独立した歴史家たらんと志す魚豢の思いを読み取った。
40 漢代鼙舞歌辞考究―以曹植《鼙舞歌》為線索― 査読付 単著 平成27年(2015)12月 楽府学(中国・首都師範大学中国詩歌研究中心) 第12輯 pp.55-63 学術論文39の内容のうち,特に,曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として,漢代鼙舞歌辞を復元することが可能であることを論証した部分に焦点を絞った,中国語による論文。翻訳は,福岡国際大学の海村惟一(兪慰慈)教授による。楽府学会第2回年会・第5回楽府詩歌国際学術研討会(学会発表16)での口頭発表の原稿に,若干の追補修正を加えて成ったものである。
39 漢代鼙舞歌辞考―曹植「鼙舞歌」五篇を媒介として― 査読付 単著 平成27年(2015)6月 中国文化 第73号 pp.1-13 現存しない漢代の鼙舞歌辞を,曹植「鼙舞歌」五篇により復元し得ることを示した論。まず,漢代鼙舞歌辞「章和二年中」の替え歌である曹植「聖皇篇」について,章和二年の史実に照らして,これが本歌の忠実な再現であることを論証した上で,曹植が置かれていた境遇から,彼の他の「鼙舞歌」も同様であろうことを推論した。更に,曹植の本作品群の表現に,俗楽歌辞や語り物といった漢代宴席芸能の一端が垣間見えることにも論及した。
38 漢代画像石と語り物文芸 査読付 単著 平成26年(2014)12月 中国文学論集 第43号 pp.11-20 漢代の墓室内を飾る線刻,画像石に描かれた歴史故事は,当時の宴席で上演されていた語り物文芸や演劇を,図像に再現してみせたものではないかとの仮説を提示した試論。この種の歴史故事が,文献において話芸を思わせる文体で記されていること,その図像がしばしば宴席風景や歌舞を描く画像石に隣接して現れること,画像石に描かれた歴史故事が後世の演劇や語り物文芸にも多く取り上げられていることから,上述の仮説を導き出した。
37 「厳島八景」文芸と柏村直條   単著 平成26年(2014)3月 宮島学(渓水社) pp.111-130 学術論文35を継いで,石清水八幡宮の柏村直条が厳島の文芸興隆に果たした役割を詳述した。京都八幡の「男山八景」を企画した柏村は,その幅広い人脈を活かして,公家たちに「八景和歌」や「嚴島社奉納和歌」二十首を勧進しただけでなく,同時期に「客人社奉納和歌」にも発起人として関わり,連歌師の里村家には発句の奉納を勧め,更に,公家と黄檗宗の僧侶たちに漢詩の奉納を勧進したことを述べ,彼の再評価の必要性にも論及した。
36 厳島に伝わる左方舞楽とその来源   単著 平成26年(2014)3月 宮島学(渓水社) pp.51-70 厳島に伝わる左方舞について,その来源を中国側の文献資料に探り,それらが唐代音楽文化に占める位置を確認しながら,日本における異文化摂取の特徴に論及した。散楽に由来する「抜頭」「蘭陵王」,宮中の宴席で上演される燕楽に由来する「万歳楽」「太平楽」,辺境で生れた新楽に由来する「甘州」「還城楽」を取り上げて論じ,中国では娯楽芸能であったものが,日本への移入後,雅なものへと洗練されていく傾向のあることを指摘した。
35 悦峰の「厳島八景詩序」と柏村直条   単著 平成25年(2013)3月 県立広島大学宮島学センター年報 第3・4号 pp.37-46 宮島の美観を選りすぐった「厳島八景」は,当島の光明院の恕信が発起し,これに賛同した石清水八幡宮の柏村直条が,京都の公家たちに働きかけて成ったものだとされている。この定説に対する追補修正として,黄檗宗万福寺の住持悦峰による「厳島八景詩序」,及び柏村自身の「厳島八景和歌」跋文に拠って,「厳島八景」の事実上の選者は柏村直条であることを明らかにし,あわせてこの事実が明確に伝わらなかった理由にも論及した。
34 曹植「贈丁儀」詩小考   単著 平成24年(2012)10月 林田慎之助博士傘寿記念三国志論集(汲古書院) pp.195-214 魏の曹植がその側近に宛てた「贈丁儀」詩の精読を通して,父曹操の後継者選びをめぐる曹丕・曹植兄弟の緊張関係を浮かび上がらせた試論。複数の先行研究を精査しながら,本詩の成立を曹丕が魏王として即位した年の秋と推定した上で,当時の状況を諸史料に拠って洗い出し,本詩の為政者批判は兄曹丕に向けられたものであると推定した。更に,刑死を目前にして戦慄する丁儀に対して,なおも誠心を説く曹植の現実認識の甘さにも論及した。
33 白居易の「序洛詩」と文集六十巻―編み直された隠棲意識とその背景―   単著 平成24年(2012)3月 中国文史論叢 第8号 pp.89-100 自らの作品集編成という営為の中に,白居易の対社会的意識の推移を読み取った試論。五十八歳で洛陽に退隠した彼は,五年後,そこでの半隠遁的生活を詠ずる詩四百首余りをまとめて序文「序洛詩」を付したが,一年後に編んだ『白氏文集』六十巻には,その洛詩の一部しか収録していない。その理由を解明しつつ,白居易自らが編み直していった洛陽時代初期における隠棲意識の揺らぎと,その背景にあったと思われる官界の動向とを論じた。
32 貴族制の萌芽と建安文壇   単著 平成23年(2011)9月 魏晋南北朝における貴族制の形成と三教・文学―歴史学・思想史・文学の連携による―(汲古書院) pp.281-291 後漢末,曹操父子の周辺に形成された建安文壇について,漢代の文芸サロンからの連続性と分岐点とを明らかにし,歴史学にいう古代から中世への転換を,文学の観点から捉えた試論。建安の五言詩に頻見する宴の描写や閨怨詩(男女の離別を女性の立場から詠ずる詩)的内容は,漢代五言詩歌史の系譜に連なるものであり,文壇の主催者とそこに集う者たちとの対等な関係性には,古代とは異質な中世貴族制社会の萌芽が認められることを論じた。
31 五言詩における文学的萌芽―建安詩人たちの個人的抒情詩を手掛かりに― 査読付 単著 平成23年(2011)6月 中国文化 第69号 pp.14-26 五言詩史上,建安詩が拓いた新局面として,個人の内側に発する抒情的詠懐詩の成立があることを,具体的な作品分析を通して明らかにした論である。漢代宴席文芸の流れを汲む建安文壇の五言詩の中に,詩人が社交的な場を逸脱し,対自的に個人の心情を詠ずるものがあること,その言葉が,直接対面しているわけではない他者に受け止められている事例のあることを示して,そこに「文学」と呼び得るものの萌芽が認められることを論じた。
30 漢代古詩と古楽府との関係 査読付 単著 平成22年(2010)10月 日本中国学会報 第62集 pp.15-29 無名の文人による古詩は,民間歌謡である古楽府から派生したとする従来の説に対して,作品間における詩語の継承関係を精査することにより,両ジャンルの関係性を問い直した論。特に古詩に似た句を含む古楽府を中心に分析し,もともと出自の異なる古詩と古楽府とが,後漢時代のある時期,宴席に集う文人たちを介して出会い,たとえば古詩の句を取り込んだ楽府詩といった,両ジャンルが相互に乗り入れる作品の出現に至ったと推定した。
29 後漢時代における古詩の一系譜―古詩「凛凛歳云暮」を手掛かりとして― 査読付 単著 平成22年(2010)5月 九州中国学会報 第48巻 pp.16-30 第一古詩群(学術論文14で仮称)には属さない古詩「凛凛歳云暮」を手がかりとして,古詩が知識人層に浸透した契機とその時期を推定した論。表現的特徴から,本詩が後漢中期の男性知識人の手に成ることを論証した上で,五言詩への抵抗感の有無という点で,この時期が一世代前と一線を画していることを指摘し,前漢初期の文人枚乗の名を冠する,第一古詩群という詩群の成立が,古詩の伝播力をにわかに強めたとの仮説を提示した。
28 漢代五言詩史上に占める蘇李詩の位置 査読付 単著 平成21年(2009)6月 中国文化 第67号 pp.1-13 前漢の李陵・蘇武の名に仮託された五言詩群(蘇李詩)は,古詩や後漢末の建安詩人たちによる五言詩との間に多くの類似句を持つため,従来はこれらを近い時代の産物と見る説が有力であった。これに対して本論文は,蘇李詩,古詩,建安詩の三者間における辞句の継承関係を精査し,建安期,蘇李詩は古詩と並ぶ古典的詩歌群として認知されていたことを明らかにした。また,表現的特徴から,その生成の場が宴席であることにも論及した。
27 原初的「古詩」の性格―『楚辞』九歌との関わりを手がかりとして― 査読付 単著 平成21年(2009)3月 六朝学術学会報 第10集 pp.1-16 学術論文21で抽出した最古層に属する古詩群の中に,『楚辞』九歌を踏まえる二首の詩がある。本論文は,元来は神舞劇であったとされている『楚辞』九歌が,前漢王朝の後宮の女性たちを交えた游宴で上演されていた可能性を論証した上で,それと前述の二首の古詩との具体的接点を究明し,そこから古詩の始原的性格を浮き彫りにした試論である。古詩はその発生段階において,女性性,遊戯性の強い文芸であったことを明らかにした。
26 舞楽「抜頭」の渡来経路について   単著 平成21年(2009)3月 厳島研究 第5号 pp.54-63 厳島に一子相伝で伝わる舞楽「抜頭」の渡来経路を究明した論。日中双方の文献資料に拠り,「抜頭」を将来したとされる人物の足跡,中国大陸におけるこの種の芸能の流布状況を押さえつつ,西域由来の散楽であるこの舞は,南天竺の高僧と共に中国を旅した林邑(ベトナム)の仏哲が,中国経由で日本にもたらしたものであることを明らかにした。あわせて,日本におけるこの舞の伝承存続に,厳島が果たした大きな役割にも言及した。
25 曹操楽府詩私論   単著 平成20年(2008)9月 狩野直禎先生傘寿記念三国志論集(汲古書院) pp.161-182 三国魏の創始者曹操が楽府詩(俗楽歌辞)を多作した理由の究明を核としながら,後漢知識人における文化教養の実態,曹操と配下の人々との関係性,曹操の教養的基盤と文化資本を論じた。楽府詩という新興文芸に親しみながらも,その作者たるには躊躇した当時の知識人たちに対して,曹操の楽府詩制作は有効な人心掌握術たり得たことを指摘し,他方,過多な典故引用には,知識人層に対する彼の心理的葛藤が読み取れることにも論及した。
24 漢代五言詩歌と死後の世界 査読付 単著 平成19年(2007)12月 中国文学論集 第36号 pp.1-15 漢代五言詩歌に,死後の世界に触れるものが出現した経緯を明らかにした論。古詩の展開史上,死への言及が比較的後出の作品に限られることを確認した上で,前漢中期以降,後宮の女性たちが皇帝の死後もその陵墓に仕えるようになったこと,皇帝の陵墓の傍らに貴顕富豪たちの居住区が設けられたことを指摘して,後宮女性文化たる五言歌謡が陵墓の前でも行われるようになり,宴席で詠じられる詩歌にも死後の世界が浸潤してきたことを示した。
23 大江千里における「句題和歌」制作の意図   単著 平成17年(2005)2月 広島女子大学国際文化学部紀要 第13号 pp.182-194 学術論文20で取り上げた大江千里の「句題和歌」について,この新しい表現様式が誕生した経緯を考察した試論。しばしば生硬稚拙と評される千里の本作品群だが,当時における和漢両文学の関係性や,「句題和歌」以外の彼の歌風から見て,この直訳調は,天皇に諧謔と受け止められることを見越した上で,敢えて選び取られたと判断されることを指摘し,この新様式が彼の極めて個人的な葛藤から創出されたものであることを論じた。
22 後漢前半期の文学的一側面―班固の傅毅に対する対抗意識を通じて―   単著 平成16年(2004)12月 中国文学論集 第33号 pp.30-45 後漢初期の文人,班固と傅毅との人間関係を糸口に,当時の文学的動向における五言詩の位置を推し測った論。二人の閲歴が深く重なり合うこと,にも拘らず,その創作姿勢が異質であることを押えた上で,傅毅も手がけた,遊戯性の強い前漢初期のサロン文学「七」が,この時期にわかに復興していることに論及しつつ,大儒班固の,一文人傅毅に対する嘲笑の中に,儒家的文学観と,五言詩を含む新興文芸とのせめぎ合いを読み取った。
21 古詩誕生の場 査読付 単著 平成16年(2004)10月 中国中世文学研究 第45・46合併号 pp.19-32 学術論文14,18で仮称した第一古詩群について,詩の句数と,詩の音楽からの離脱ということを手がかりに,宴席に言及しない,離別の悲哀を詠ずる作品の中から,より古層に属する諸篇を抽出した試論。更に,これら最古層の諸篇に見える特徴的な語句の出自を究明し,古詩が誕生したのは,前漢王朝の後宮の女性たちが関わる游宴の場であり,その作者には,教養豊かな後宮の女性たちも含まれる可能性があることを指摘した。
20 『大江千里集』句題校勘記   単著 平成16年(2004)2月 広島女子大学国際文化学部紀要 第12号 pp.71-84 漢詩句を題に掲げ,これを和歌に翻案する「句題和歌」は,平安中期の大江千里に始まるとされ,その句題の大部分は白居易の詩に拠っている。本稿は,その句題について,先行研究に導かれつつ,『大江千里集』『白氏文集』の各本を比較対照し,書陵部本『千里集』の句題が,日本に伝わる抄本系『白氏文集』テキストと同等の資料的価値を持つことを指摘したものである。あわせて,書陵部本と流布本系『千里集』との関係にも論及した。
19 魏朝における「相和」「清商三調」の違いについて 査読付 単著 平成15年(2003)5月 九州中国学会報 第41巻 pp.1-18 学術論文17で得た結論に基づき,魏朝における「相和」と「清商三調」との具体的差異を明らかにした論。「相和」は前漢王朝以来の伝統を持つ古歌曲であり,魏朝はこれを宮廷音楽に組み入れることによって自らの政権に箔を付けたと見られる一方,「清商三調」の古辞(詠み人知らずの歌辞)は,後漢時代,上層階級の催す宴席で楽しまれた俗楽歌辞であり,その文化的位置を踏襲したのが魏の建安文壇であったとの推論を示した。
18 「古詩」源流初探―第一古詩群の成立― 査読付 単著 平成15年(2003)3月 中国中世文学研究 第43号 pp.1-14 学術論文14で仮称した第一古詩群について,これら諸篇の生成経緯と成立年代を推し測った試論。第一古詩群を,宴席に言及するものとしないものとに分け,この分類が,詩のテーマ,特徴的な措辞,成立時期を示唆する固有名詞等とも相関することを示した上で,本詩群は,離別を詠ずる娯楽的悲歌が,漢代上層階級の宴席で様々に展開したものであり,その最も新しい詩篇の成立は,後漢初めの洛陽においてであったとの推定を導き出した。
17 『宋書』楽志と『楽府詩集』―その「相和」「清商三調」の分類を巡って―   単著 平成15年(2003)2月 広島女子大学国際文化学部紀要 第11号 pp.51-71 魏・西晋王朝の宮廷歌曲群「相和」「清商三調」の歌辞を収録する文献資料,『宋書』楽志と『楽府詩集』とを比較検討し,史料としてより信頼性が高いのは前者の方であることを論証した。従来は,『楽府詩集』に依拠して,両歌曲群を同質のものと捉える見方が主流であったのに対して,依拠すべきは『宋書』楽志の方であり,本文献の分類に従って,本来「相和」と「清商三調」とは明瞭に区別されるべきものであったことを示した。
16 民国時代における五言古詩の研究―その成立年代を巡る論争を中心に―   単著 平成14年(2002)2月 広島女子大学国際文化学部紀要 第10号 pp.27-41 現在,中国の学界では,五言古詩の成立を後漢後期と見る説が有力であるが,この通説は,民国時代,五言詩の発生時期を後漢中期と見る,日本の鈴木虎雄の論文が翻訳紹介されたことに触発されて起こった論争の中で,短期間のうちに作り上げられたものであることを指摘した研究史論である。あわせて,この説の論拠に対する疑問点,反証等を提示し,古詩の成立時期に関する従来の定説には再検討の余地があることを明らかにした。
15 陸機における「擬古詩」制作の動機について 査読付 単著 平成13年(2001)3月 六朝学術学会報 第2集 pp.1-16 陸機が「擬古詩」の模擬対象を第一古詩群に限った理由を考究した試論。当時,第一古詩群の作者は,呉から中原へ,陸機と同じ足跡を辿った前漢の枚乗と伝えられていたこと,後漢から西晋に至る時代,古詩風の五言詩は中原の文壇で流行していたこと,敗戦国の呉から西晋王朝へ出仕した陸機が貴族社会で冷遇されていたことを示しながら,陸機における本作品群の制作は,彼の西晋文壇に対する無言の挑戦ではなかったかと推論した。
14 陸機擬する所の古詩について 査読付 単著 平成11年(1999)12月 中国文学論集 第28号 pp.1-18 漢代詠み人知らずの五言詩である古詩諸篇の中には,比較的古い,別格扱いの一群(第一古詩群と仮称)があり,それは陸機「擬古詩」十余篇の模擬対象となった古詩であることを,『詩品』における古詩への論評姿勢,陸機の模擬した古詩と『玉台新詠』所収の枚乗「雑詩」とが重なること等から論証した。これにより,従来は後漢後期とされてきた古詩の成立時期について,抜本的に見直すたしかな手がかりが与えられるとの見通しをも示した。
13 台湾国立中央図書館蔵『新雕白氏六帖事類添注出経』について   単著 平成10年(1998)12月 広島女子大学国際文化学部紀要 第6号 pp.57-68 『新雕白氏六帖事類添注出経』は,学術論文11で取り上げた北京図書館蔵残巻のほか,台湾国立中央図書館に二十八巻が伝わる。本稿は,台湾本を北京本と比較照合し,その巻頭に付する詳定所牒文(出版許可書),避諱欠筆の有り様から,それが初版本を装う海賊版であろうことを推定したものである。更に,原本を忠実に再現しようとする台湾本に拠り,添注出経本の刊行年や,当時における編者晁仲衍の情況を推測し得るとの見通しを示した。
12 『白氏六帖』礼部校箋   単著 平成10年(1998)3月 広島女子大学国際文化学部紀要 第5号 pp.69-90 学術論文11で推定した『白氏六帖』諸本の継承関係を検証するとともに,この類書における文献抄録の特徴を究明するため,『白氏六帖』巻十七の「礼」から「郷飲酒」に至るテキストについて,現存する諸版本の校勘を行い,採録文献の典拠とその原典の現存テキストをも併記して『白氏六帖』に抄録された文面との異同を示した覚書。特に礼部を取り上げたのは,この巻を存する北京図書館蔵残巻を校勘材料として活かすためである。
11 北京図書館蔵『新雕白氏六帖事類添注出経』残巻について 査読付 単著 平成9年(1997)12月 中国文学論集 第26号 pp.55-71 『白氏六帖』に対する一種の増補版『新雕白氏六帖事類添注出経』は,採録文献の典拠をその巻次に至るまで詳細に注記するところに特徴があり,そこに北宋の広範な読書人層における『白氏六帖』の流行ぶりが窺える。本稿は,その北京図書館蔵残巻を取り上げて,先行研究を批判的に継承しつつ,添注出経本の撰者を晁仲衍と推定し,五代から北宋に至る『白氏六帖』の流伝情況,及びその系譜上に占める添注出経本の位置を推定したものである。
10 『白氏六帖』炭門考   単著 平成9年(1997)3月 広島女子大学国際文化学部紀要 第3号 pp.13-27 中唐の白居易による私撰の類書『白氏六帖』が,実は後人の手になる部分をその内に少なからず含んでいることを指摘した上で,原著者白居易に遡及するのではなく,この類書を利用しつつ文献を追補していった近世初頭の新興知識人層に目を向け,その教養の実態を明らかにしようとした試論。特に炭の部門を取り上げたのは,炭という物質が,技術革新が著しく進展した唐宋の間,その用途を大きく変えたことに着目したからである。
9 虞世南の文学思想とその実践―政治的実用文の分野を中心として―   単著 平成8年(1996)2月 広島女子大学国際文化学部紀要 第1号 pp.23-36 学術論文6,7,8で究明した虞世南の文学観を,その実作において確認した追補の論。『北堂書鈔』の編集態度に読み取れる彼の文体改革運動は,主に駢文という文体で綴られる政治的実用文を批判の標的としていることを指摘した上で,この分野における虞世南自身の実作例「諌猟疏」を取り上げて,これを当時の一般的文章規範,劉善経『四声指帰』等に照らしつつ,その文学観の実践がたしかに認められることを明らかにした。
8 虞世南における『北堂書鈔』編纂の意図とその文学史的意義 査読付 単著 平成7年(1995)7月 東方学 第90輯 pp.48-62 学術論文6,7で指摘した『北堂書鈔』独特の引書傾向が虞世南の意識的編集によることを確認し,南朝末から隋代に至る文学的動向を押さえた上で,この編纂物が持つ文学史的意義を明らかにした論。編者の意図は,南朝流の耽美的文学に靡く隋朝文壇を批判し,正統派文学への回帰を促すことにあり,この反南朝的文学観は,文学の堕落が王朝滅亡に直結する様を,父子二代で目の当たりにした自身の経験に根ざしていることを論じた。
7 『北堂書鈔』引書考―集部以外の文献を中心として―   単著 平成6年(1994)1月 筑紫女学園大学紀要 第6号 pp.59-74 『北堂書鈔』に採録される,文学作品以外の一千余りの書目を,『隋書』経籍志に記された書目,及び『藝文類聚』所収の文献と照合し,この類書が,当時の知識人の目には触れ難くなっていた文献を意欲的に収集しようとするものであったことを明らかにした。更に,南朝の文学作品を収録しないことと考え合わせ,虞世南は北朝知識人社会に豊富な資料を提供するのと引き換えに,正統派文学の復興を企図したのではないかとの推論を示した。
6 従『北堂書鈔』的編集態度看虞世南的文学観 査読付 単著 平成5年(1993)12月 中国文学論集 第22号 pp.15-27 隋の虞世南による類書『北堂書鈔』には,古今の様々な文献を引く中で,文学に関してのみ,南朝の作品を一篇も採らないという独特の編集態度が認められることを指摘し,ここに編者の反南朝的・復古主義的文学観が窺えることを論じた。従来,文献の網羅的集積として,あるいは佚文の宝庫として利用されるのみであった類書そのものを研究対象とし,編集という営為の中に,編者の文学的価値観が読み取れることを示した試論。中国語訳は夏露・石其琳。
5 陸機「擬古詩」試論   単著 平成3年(1991)10月 筑紫女学園大学国際文化研究所論叢 第2号 pp.1-15 漢代詠み人知らずの五言詩「古詩」を模した陸機の「擬古詩」について,その表現様式や修辞的特徴から作者の内面に遡及しようとした試論。従来,単なる模倣作品に過ぎないとするか,郷愁を詠ずる詩の内容をそのまま作者の心情と見る解釈が主流であった本作品群を,各詩の拠った本歌とそこから乖離する表現の分析により,異郷で官途に就いた陸機の,望郷の念と現世的野心との間で引き裂かれている心的情況を浮き彫りにした。
4 陸機における「辯亡論」制作の意図   単著 平成2年(1990)1月 筑紫女学園大学紀要 第2号 pp.73-98 祖国呉が滅亡した原因を論じる,若き日の陸機の代表作「辯亡論」を精読し,本作品の中でかつての敵国西晋王朝に対する呼称が相当な振幅をもって揺れ動くことに着目し,そこから作者の制作意図を探った試論。西晋王朝への出仕を企図しながらも,呉の名門士族であるという強い自負心を持つ彼にとって,西晋は相対的な価値を持つ一王朝に過ぎず,才能ある者は何処でも重用されるべきだとの思いが,本作品の根底にあることを明らかにした。
3 陸機楽府詩私論   単著 平成元年(1989)2月 文学研究(九州大学文学部) 第86輯 pp.47-74 西晋文壇を代表する陸機の詩は,漢魏の古歌曲に基づく歌辞,いわゆる楽府詩がその約半数を占めている。一般に,本歌の内容に沿いつつ,三人称の替え歌として作られる場合が多い楽府詩だが,陸機の作品においてはしばしば本歌の規矩を踏み越え,同じ方向性を持つテーマ,すなわち,いかにも儒家らしい済世の志が,繰り返し一人称で詠じられる。この表現的特徴を指摘し,そこに彼の野心を読み取ろうとした私論である。
2 自薦状としての張華「鷦鷯賦」 査読付 単著 昭和61年(1986)12月 中国文学論集 第15号 pp.71-99 西晋の張華は,当時における最先端の『荘子』解釈に基づいて卑小な鳥の自足を描く「鷦鷯賦」により,天子の補佐たる才能が認められ,官界へ出る契機を得た。内容的には隠遁志向を表明する本作品が,その言葉の意味するところとは裏腹に,社会的には自薦状として機能したのはどういうわけか。この疑問を手がかりとして,西晋貴族社会における似非道家思想の蔓延ぶりを炙り出そうとした私論である。(旧姓田中で発表)
1 阮籍「獼猴賦」試論 査読付 単著 昭和61年(1986)10月 日本中国学会報 第38集 pp.88-102 宮中に繋がれたオオザルを描く阮籍「獼猴賦」を取り上げて,その表現上の特徴から作者の内面に迫ろうとした試論。一作品の中で,獼猴に対する話者の視点が変動することを指摘した上で,他の文人による同種の作品,及び阮籍の他の作品にも論及しつつ,彼の作品を特徴づけるこの対象への眼差しの揺らぎが,不本意ながらも王朝簒奪者の下で生命を全うした彼の苦渋に深く根ざしていることを論じた。(旧姓田中で発表)