強引に民から辛苦を奪う

『三国志』及びその裴松之注には書き留められていない曹操の事跡として、
彼が次のような令を出していることを記しておきます。*

それは、寒食(冬至から百五日目に火を用いた食事を断つ)という慣習を禁ずる令で、
隋・杜台卿撰『玉燭宝典』二月の項に、次のように引かれています。

 魏武明罰令云、聞太原上党西河雁門、冬至後一百有五日、皆絶火寒食、云為介之推。夫之推、晋之下士、無高世之徳。子胥以直亮沈水、呉人未有絶水之事。至於之推独為寒食、豈不偏乎。云有廃者乃致雹雪之災、不復顧不寒食。郷亦有之也。漢武時、京師雹如馬頭、寧当坐不寒食乎。且北方冱寒之地、老少羸弱将有不堪之患。令書到、民一不得寒食。若有犯者、家長半歳刑、主吏百日刑、令長奪一月俸。

 魏の武帝(曹操)の「明罰令」にいう。聞いたところ、太原・上党・西河・雁門の各地では、冬至以降の一百有五日、すべて火を断って寒食(火で温めない冷たい食事)し、それは介之推のためだという。そもそも介之推は、晋の下級士人で、卓越した徳を持っているわけでもない。伍子胥は真っ正直な精神を持ちながら水に沈んだが、呉人は水を絶つようなことをしてはいない。ところが、介之推についてのみ寒食をするとは、なんと偏っていることよ。また、廃止したら雹雪の災いを引き寄せるから、寒食しないではいられない、と言うものがある。だが、昔にもこのようなことがあった。漢の武帝の時、都で馬の頭ほどの大きな雹が降ったのだ(『漢書』巻27中之下「五行志中之下」に記す元封三年十二月の出来事)。それならむしろ何もせず寒食しない方がよくないか。そもそも北方の凍てつく土地で、老人や幼児、身体の弱い者たちは寒食に耐えられない心配がある。令書が到着したら、民はいっさい寒食してはならない。もし違反した場合は、家長は半歳の刑、主吏は百日の刑、令長は一月の減俸とする。

『藝文類聚』巻4、『初学記』巻4、『太平御覧』巻30にも、この一部が引かれています。

常識に縛られず、北方地域における寒食を廃止せよと命じた令なのですが、
その語り口や刑の中身がかなり強引です。
強引に、民から苦しみを取り去ろうとしているところ、惹かれます。
優しい口調で民をだまし、絞り上げるのとは正反対のことをしているのですね。

曹操は、あざといだけの人だったのではないのではないかと思わされる逸話です。

それではまた。

2019年11月7日

*梁・宗懍原著、守屋美都雄訳注、布目潮渢・中村裕一補訂『荊楚歳時記』(平凡社・東洋文庫、1978年)、中村裕一『中国古代の年中行事 第一冊 春』(汲古書院、2009年)を参照。