過去の遺漏に気付く

昔の自分が気付いていなかったことに新たに気付く、
これは、忸怩たる思いが半分、あと半分は少しうれしい気持ちです。
一歩ずつでも前進しているということですから。

本日の授業(演習)で、過去の遺漏をひとつ見つけました。
(白居易と元稹との間で交わされた詩を読んでいます。)

白居易の「秋題牡丹叢」(『白氏文集』巻九、0415)の1・2句目、

晩叢白露夕  枯れかかった牡丹の群がりに白露の降りる夕べ、
衰葉涼風朝  衰えた葉に涼やかな秋風が吹きぬける朝。

に対して、語釈に次のことを示すべきでした。

『礼記』月令、孟秋の月(初秋)に、
「涼風至、白露降、寒蝉鳴(涼風 至り、白露 降り、寒蝉 鳴く)」と。

この古典を踏まえる表現が二句に渡っていて、
しかも一見ありふれた言葉のように見えるためでしょうか、
昔の自分は、上記のことを指摘できていませんでした(著書3)。
ここに修正し、次の機会があれば改めたく思います。

それはさておき。

こういうとき、私は中国古典文学をやっていてよかったと思います。
普通、すでに終わった人だと思われかねない年齢も、
この世界ではまだばりばりの現役です。
そして、小さな先入観を越えるものに出会って自分を刷新する、
そうした学びが、その気持ちさえあれば、ずっと継続できるのですから。

学ぶは、まねぶ、というスタンスの古典学は、
いわば自分が世界を分析する、今風の学修とは異質です。
ですが、一旦自己を忘れ、まねぶことによって、古人の生を生きなおす、
それによって気付かされることの面白さ、うれしさは格別です。

食わず嫌いで敬遠するのは、とても惜しいことをしていると思いますよ。

それではまた。

2019年7月4日