権力者と知識人
昨日、目を止めた建安13年(208)、
孔融が曹操のために市場で殺されるという出来事が起こりました。
(孔融は、孔子二十世の孫で、建安七子の一人に数えられる知識人です。)
孫権からの使者に対して、曹操を誹謗中傷する発言をしたというのがその理由です。
(『三国志』巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』)
孔融は、建安2年(197)、曹操に殺されかけた大尉の楊彪を弁護し、
(皇帝を僭称した袁術と婚姻関係を結んでいるというのが楊彪の罪状です。)
曹操も、知識人社会の世論を意識して、その説得に従いました。
(同巻12「崔琰伝」裴注引『続漢書』)
ただ、ここへきて曹操は、
積もりに積もった孔融への怒りが抑えきれなくなったのでしょうか。
たとえば、建安元年(196)、司空となった曹操に対して、
孔融はことさらに昔と同じ態度をとり、書簡も非常に高慢な書きぶりでした。
(同巻11「王脩伝」裴注引『魏略』)
また、曹操が禁酒法を制定した時も、孔融は書簡を送って嘲笑しましたし、
(同巻12「崔琰伝」裴注引張璠『漢紀』)
建安7年(202)、袁紹を破った曹操に宛てた書簡でも、
孔融はまことしやかな嘘を書いて、ことさらに曹操を愚弄しています。
(同巻12「崔琰伝」裴注引『魏氏春秋』)
卑しい出自の権力者に対する清流人士の抵抗、といえば聞こえはいいのですが、
実態はそんなに単純なものではなかったように思います。
孔融と旧交のある知識人、たとえば脂習や邴原は、
孔融の言動に対して、決して肯定的な評価はしていませんでした。
脂習は、孔融の傲慢さをたしなめていますし(前掲『魏略』)、
邴原は孔融の推挙を辞退しています(巻11「邴原伝」裴注引『邴原別伝』)。
かといって、
孔融を批判した彼らが曹操寄りかといえば、それも違います。
知識人たちは、儒家的な規範を盾に、曹操という権力者と対等に渡り合い、
曹操もまたそれを容認、というよりもそれに従わざるを得なかったというのが実態のようです。
(もしよろしければ、こちらの、特に後半をご覧ください。)
修訂作業を進めている「曹操の事跡と人間関係」は、
やっと建安13年まで来ました。
時に曹操は54歳、まだまだこれからです。
それではまた。
2019年7月11日