最初の言葉がもつ欠落

昨日、曹植のことを伝えていきたい、といった趣旨のことを書きました。

これ、訂正します。
人に伝える前に、まず自分が曹植のことを知らないと。
書いたあとで、このことに思い至りました。
ですが、その時そう思ったことはたしかなので、書き直しはしません。

なぜ、伝えるなどと書いたのかといえば、
それは、いずれ曹植の詩文をだれも読まなくなるのではないか、と感じたから。
この危機感、大仰ではありますが、ずっと底を流れているものです。
(中国古典文学、特に古い時代の詩文を研究する人は減少傾向にあります。)

この危機感が現実のものとならないように、まず自分がやらないと。
だから、私は私で曹植の作品を読んでいくことにします。
そうしているうちに仲間もできるかもしれない。

それはさておき。

言葉にしてみて始めて、その思考の不備に気付くということがあります。
最初に発する言葉は、たいてい不安定で、いつも何かが足りない、
そして、その欠落を補うようにして、次の言葉が出てくる。
最初の言葉さえ決まれば、それがきれいな欠落を有してさえいれば、
あとは自然に転がっていくように感じています。

もちろん、その前には、たくさん読んで、調べます。
そのうち、核をもったイメージが現れてきて、それからやっと書き出すのです。
論文の書き方には、研究者それぞれに流儀というものがあるのだろうと想像しますが、
私の場合はこんな感じ。あらかじめ構成立てるということはしません。

それではまた。

2019年7月16日