屈折した為政者批判
昨日の訂正です。
魏文帝として即位して後の曹丕に対しては、
曹植はわりあい明確に批判している、として提示した拙論についてです。
曹植の鼙舞歌「聖皇篇」は、
あからさまに曹丕を名指しで批判するものではありません。
その内容が、兄弟を強制的に任地に赴かせた曹丕の所業と酷似しているため、
この詩に曹丕への批判を読み取ろうとする先人も少なくありませんが、
(特に中国の先人にはこうした解釈をされる方が多いです。)
しかし、この「聖皇篇」は、『宋書』巻22・楽志四に記すとおり、
漢代鼙舞歌(佚文)の「章和二年中」を踏襲するもので、
その内容も、まさしく後漢の承和二年に起こった出来事に合致しています。
ただし、内容も踏襲する替え歌、という枠を借りて、
曹植は非常にきわどいことを言っていると、表現のあり様から読み取れます。
その曹丕に対する批難の口ぶりは、かなり皮肉っぽく隠微です。
なぜ、このような屈折した表現方法を取ったのか。
それは、曹丕が即位して以降の曹植は、常に権力者の監視下に置かれていたから。
(『三国志』巻19「陳思王植伝」)
直接的な為政者批判は、たちどころに厳罰を引き寄せることになるでしょう。
とはいえ、わだかまる憤懣は、これを表出しないではいられない。
その屈託の中から噴出した歌辞が、彼の鼙舞歌「聖皇篇」だということです。
もし疑問を感じられるようでしたら、上記の拙論をお読みいただければ幸いです。
それではまた。
2019年7月18日