曹丕の肉声か?
曹丕の詩は、漢代の古詩や古楽府、建安の先輩詩人たちの表現を多くちりばめ、
そこに彼の肉声を聴いたと感じることは、私にはあまりありません。
そんななか、『文選』巻二十九所収「雑詩二首」其二にふと目が留まりました。
西北有浮雲 西北の空にぽっかりと浮んだ雲、
亭亭如車蓋 高いところに寄る辺なく浮かぶさまは車の傘のようだ。
惜哉時不遇 残念なことに、よき時運にめぐり合わず、
適与飄風会 たまたま巻き上がる疾風と出会ってしまった。
吹我東南行 疾風は私を吹き上げて東南に向かわせ、
行行至呉会 どんどんと進んでいって、呉会(呉や会稽の一帯)に至った。
呉会非我郷 呉会という土地は我が故郷ではない、
安能久留滞 どうして久しくここに留まることなどできようか。
棄置勿復陳 だが、辛さは心の外に捨て置いて、二度と泣き言を並べるのはやめよう。
客子常畏人 異邦人(自分)は常に他人を憚ってびくびくしている。
第一句は、『文選』巻二十九「古詩十九首」其五にいう「西北有高楼、上与浮雲斉」を思わせ、
第九句は、同上「古詩十九首」其一に「棄捐勿復道、努力加餐飯」とあるほか、
漢魏の詩歌にはよく見かける常套句です。
また、第七・八句は、近しい先輩詩人の王粲の「七哀詩」(『文選』巻二十三所収二首の其二)にいう
「荊蛮非我郷、何為久滞淫」を明らかに模倣しています。
こんな風に、曹丕のこの詩には、どこかで目にしたことがあるような辞句が並んでいます。
ところが、末尾の「客子 常に人を畏る」には、他に類似句が見当たりません。
(もっとも、現存する作品を見る限りではありますが。)
漢魏詩では、旅人はだいたい故郷を思うことになっているのに、
ここに詠じられているのは、見知らぬ人にびくびくとして萎縮している小心者です。
これはまったくの直感的な感想でしかないのですが、
曹丕という人物の持つ弱さが、ここに丸腰で現れているように感じました。
そして、ここから遡って上の方の句を見直してみると、
曹丕のそこはかとない物寂しさ、不安感がにじみ出ているようにも感じられます。
なお、この感想は、彼の事跡をひととおり見ているからこそ出たものであって、
作品そのものに立脚した分析から導き出された解釈ではありません。
したがって、もちろんこのままでは論にはなりません。
それではまた。
2019年7月19日