先人たちと共に

一昨日話題に挙げた、曹植の「元会」詩にいう「清酤盈爵、中坐騰光」。

曹植がもし『楚辞』招魂を意識しているとするならば、
宴席に集った人々の、ほろ酔い気分で紅色に染まった頬が内側から輝くさまを、
美女のまなざしが放つ輝きに重ねていることになる、とは先にも述べたとおりです。

言葉の組み合わせ方が意外で、斬新な表現だと感じます。
ところが一方、この句に続いて、曹植は先行作品をまるごと用いてもいます。

珍膳雑遝  珍しいご馳走が多彩に盛られ、
充溢円方  丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。

これは、後漢の張衡「南都賦」(『文選』巻四)にいう、

珍羞琅玕  珍しいご馳走は玉のように麗しく、
充溢円方  丸い皿、四角い器にあふれんばかりだ。

を踏まえていること、疑いを納れません。ほとんど同じですね。

そして、張衡のこの表現は、
曹植と関わりが深かった王粲の「公讌詩」(『文選』巻二十)にいう、
「嘉肴充円方(嘉肴は円方に充つ)」に用いられています。

実は、上記のことを、黄節『曹子建詩註』は指摘していません。
思わずガッツポーズを取ったのですが、

伊藤正文「曹植詩補注稿(詩之一)」(『神戸大学文学部紀要』8、1980年)、
趙幼文『曹植集校注』(人民文学出版社、1984年)が、既にこのことを指摘していました。

やっぱり先人たちの仕事はすごいです。
そして、このような分野を専攻してよかった、と思うのです。
(すんでのところで天狗にならずにすみますから。)
“私が”ではなくて、先人とともに曹植の文学に迫っていくのだという、
不思議に静かで満ち足りた、それでいて渇望と情熱とが入り混じった気持ちです。

それではまた。

2019年7月31日