批評的な精神
先日のメモから。
ものごとを客体化して冷静に判断する、
という意味での批判的な姿勢とはどのようなものなのだろうか。
(他者を否定的に見る、批難する、という意味ではなくて)
定期試験を目前に控えて浮かび上がってきた想念でした。
というのは、必ずいるのですね、たとえば科挙制度の不平等性を批判するとか。
(まだ採点していないので、今年の答案についてはわかりません。)
自立した現代人として、過去の人や制度を批判する、
これは、一見とても批評的な態度のように感じられるのですが、
ここには、自身の立脚点に対する批判、自身の相対化というものがありません。
自分のことは棚に上げたまま、他者を一方的に批難しているのと同じ。
もちろん、古のことがすべて理想的であったというのは時代錯誤ですが、
過去を相対化して批判するならば、比較対象は、現代ではない別のものでなければ。
では、たとえば過去の人物になりきってみるというのはどうか。
自分を過去の人物に投影させるのは論外だとして、
もし本当になりきるとするならば、
それには一旦、今の自分を覆っている皮膜を破り捨てる必要があるでしょう。
そうして、ふたたび現在の自分に立ち返ったとき、必ずや違和感を覚えるに違いありません。
その違和感は、現在の自分、現代という時代を相対化する契機となるかもしれない。
ならば、これはすぐれて批評的な精神への出発点となり得るのではないか、
そう思いました。
いずれにしても、異なる世界との往還が、私たちの精神を耕すのでしょう。
それではまた。
2019年8月7日