気付かぬうちに肩入れ
今年中にこちらに公開する予定の「曹操の事跡と人間関係」ですが、
少しずつ修訂作業を進める中、今日、次のことに遭遇して思わず足を止めました。
それは、かつてこちらでも言及したことがある丁儀の所業です。
丁儀は、曹操の跡継ぎとして曹植を強く推したために曹丕の恨みを買い、
曹丕が魏王となってから間もなく殺されたという人物です。
(ここへ至る経緯については、こちらの拙論の特に第三章をご覧ください。)
このため、私はこれまで丁儀のことを、悲劇的な人物として同情的に捉えていました。
ところが、彼は清流の知識人たちを故意に陥れるようなことをしていたのでした。
高圧的な態度で、不仲な人々の欠点をあげつらったり、追い落としたり。
『三国志』及び同裴松之注に引く諸文献に記されているところでは、
その犠牲者はたとえば次のような人々です。
・徐奕(巻12「徐奕伝」、同巻裴注引『魏書』『傅子』、巻22「桓階伝」)
・崔琰(巻12「徐奕伝」裴注引『傅子』)
・何夔(巻12「何夔伝」、同巻裴注引『魏書』)
・毛玠(巻12「何夔伝」裴注引『魏書』、巻22「桓階伝」)
官撰の『魏書』が、魏王朝にとって邪魔者となった丁儀の悪事を暴くのは当然として、
隣接する時代の傅玄(217-278)が著した『傅子』に、
丁儀が徐奕と崔琰との間を引き裂いた、と記されていることには驚きました。
(傅玄もその目で見たわけではないので、これを鵜呑みにすることはできませんが。)
私はいつのまにか、曹植に肩入れするあまり、
彼を推した人物をも、無条件に“いい人”扱いしていたのですね。
他方、丁儀にも“汚い手”を使わざるを得なかった理由があったのでしょう。
誰だって全面的に“いい人”ではないはずで、様々な面を持つのが普通の人間でしょう。
そんな至極あたりまえのことに今さらながら気付かされました。
それではまた。
2019年8月19日