曹植の二種類の相和歌辞

相和歌「薤露」の歌辞として、
魏の武帝、曹操の「惟漢二十二世」、
西晋の傅玄「惟漢行」のあることは先に述べたことがありますが(2019.07.23)、
曹植にも二篇、「薤露行」と「惟漢行」とが伝存しています。

この楽府題が曹植自身によるものだとして、
なぜ片方は「薤露行」で、片方は「惟漢行」なのでしょうか。

「惟漢行」が、曹操の詠じた内容を継承しているであろうことは予測できます。

他方、「薤露行」の方は、そうではないかもしれない。
「薤露」のような挽歌は、後漢時代、宴席でも歌われていましたから、
(『続漢書』五行志一・劉昭注補に引く応劭『風俗通義』*、『後漢書』周挙伝)
そのような場で作られた可能性もあります。

曹植は、明帝の太和六年(232)に亡くなっているので、
当時、魏王朝の宮廷内で、曹操の「薤露・惟漢二十二世」は当然演奏されていて、
そのような状況下で、曹植は二種類もの「薤露」歌辞を作っている。
これはどういうわけなのでしょうか。

他方、二篇の歌辞の成立はいつなのでしょう。
これがまた諸説紛々です。
そして、いずれの説も確たる根拠を示してはいません。

作品の成立時期を推定し、
その時期、作者が置かれていた環境から、作品解釈をする、
そのような研究手法を、自明のこととして取る必要はないと思います。

ただ、作品を精読していくと、
いずれ制作時期を考えざるを得ないところに逢着しそうです。
わかるかどうか、わからないですが。

それではまた。

2019年8月23日

*王利器『風俗通義校注』(中華書局、1981年)「佚文」p.568を参照。