少年皇帝の無念

東晋の曹毗による「晋江左宗廟歌十三篇」(『宋書』巻二十・楽志二)の其三、
文帝司馬昭を賛美する歌辞の中に、次のような句があります。

皇室多難  時に皇室は多難な時期であったが、
厳清紫宮  太祖文帝(司馬昭)は宮廷内を厳しく清め正された。

「厳清紫宮」が指し示す史実としては、
高貴郷公曹髦の起したクーデターを、司馬昭が鎮圧したという事件がそれでしょう。

曹髦は、曹丕の孫で、嘉平六年(254)、十四歳で魏王朝の第四代皇帝に即位しました。
しかし、王朝の実権は司馬氏側に握られており、そのことに憤懣やるかたない彼は、
甘露五年(260)、親衛隊を率いて司馬昭を伐ちに出て、
たちどころに、司馬昭の腹心である賈充の指示を受けた成済に刺殺されます。
時に弱冠二十歳でした。
(『三国志』巻四・三少帝紀、及び同裴松之注に引く『漢晋春秋』ほか)

共同研究の読書会でこの作品を読んでいて、問題になったのが、
「皇室多難」の「皇室」が、曹魏を指すのか、司馬晋を指すのかということです。

この宗廟歌は司馬晋側の立場から作られたものなので、
司馬晋の「皇室」にとって、高貴郷公曹髦のクーデター等を「多難」と言っているのか。
あるいは、
当時はまだ曹魏王朝が曲がりなりにも存続しており、司馬氏は臣下の立場だから、
「皇室」とは曹魏を指すのではないか。
だが、そうすると「多難」は何を指すことになるのか。

研究会から戻って、諸々の資料を見直していて、はたと気付きました。

前掲の『三国志』三少帝紀(高貴郷公曹髦)の本文、
皇太后(明元郭皇后)の名で出された令には、曹髦の罪状があれこれ記されています。
一方、裴注に引く『漢晋春秋』は、彼の行為の動機や、殺害に至った経緯を詳述しています。
(裴松之は、この資料は後出だが、ことの次第をよく記していると評価しています。)

つまり、高貴郷公曹髦は、『三国志』本文ではワルモノにされているのです。

これを踏まえれば、前掲の詩句の不明瞭さは晴れてきます。

曹魏の「皇室」にとって、
高貴郷公曹髦の憤懣に発する行為を「多難」と称している、という解釈が妥当でしょう。

曹魏王朝の内部に、皇室を困難に陥れる乱暴者がいた、
それを粛清したのが司馬昭だ、というわけですね。

なぜ怒りに震え、遂に暴虐のふるまいに出ることとなったのか、
その理由を顧みられることもなく、根本にある思いも大人たちに無視され、
目に見える乱暴な行為のみを取り上げて問題ありとされた、少年皇帝の無念を思います。

それではまた。

2019年9月9日