鎮魂歌としての「怨詩行」(3)
昨日述べた、風の話に行き着く前に、
もうひとつ説明しておかなくてはならないことがありました。
晋楽所奏「怨詩行」の、「君為高山柏」の前には、
本歌の曹植「七哀詩」にはなかった、次のような句が増補されています。
念君過於渇 貴方のことを繰り返し思うことは、喉の渇きよりもひどく、
思君劇於饑 貴方を思慕することは、飢えよりも激しい。
人に思い焦がれるさまを飢渇に例える例は、漢代詩歌にすでにありますが、
注目したいのは、他ならぬ曹植の作品にも、この表現が用いられていることです。
「責躬詩」(『文選』巻20)に、こうあります。
天啓其衷 得会京畿 天子がお心を開かれ、都でお会いできることとなった。
遅奉聖顔 如渇如飢 面会を待ち焦がれ、飢渇に身をさいなまれる思いだ。
ここに曹植が思い焦がれている天子とは文帝、兄の曹丕です。
そうだとすると、
同様な表現が用いられている「怨詩行」において、
飢渇よりも激しく思いを寄せられている「君」は曹丕を指し、
「君」に思いを寄せる「濁水泥」のような「妾」とは曹植をいう可能性があります。
そして、「怨詩行」が作られた時点で、曹植も曹丕もすでに亡くなっていました。
だからこそ、「君為高山柏」なのですね。では、一方の「妾為濁水泥」はどうでしょうか。
曹丕と曹植の葬られた場所は、
曹丕が、洛陽の東の郊外にある首陽陵(必ずや柏が植わっているでしょう)、
曹植が、最晩年に報じられた東阿(漢代に氾濫を起こした河の傍ら)、
両者の位置関係は、曹丕の陵墓から見て、曹植の墓は東北の方角に当たっています。
「怨詩行」にいう「東北風」とは、東北から吹いてくる風、
つまり、曹植の墓と曹丕の陵墓とを結ぶ線上に吹く風と重なるのです。
本歌にあった「西南風」が、「怨詩行」で「東北風」に改変されたのは、
このことと深く関わっているだろうと私は考えます。
(こじつけのように聞こえますか。)
明日へつづく。
2019年9月18日