限られた記憶容量
先週、5回にわたって書き記したのは、
今年の三月に書いた論文を再構成するためのメモでした。
ところが、わずか半年ほどしか経っていないのに、
かなりの部分を忘れていた。
清路の塵が高山の柏になったこととか、
西南の風が東北の風になったこととかは鮮明に憶えていたのですが、
小さな、でもこれがないと単なる憶測になる、
そんな結節部分がきれいさっぱりと記憶から落ちていたのです。
ちょっと愕然としました。
思えば、三月は性質の異なる複数の仕事を同時並行で行っていた、
その隙間を縫うようにして書いた論文だからか、
(だから完成度も低い。)
それとも、脱稿後の半年、新たな出来事の記憶が脳裏に刻まれたからか。
忙しすぎるのか、いらない情報が頭に入って来すぎるのか。
いつだったか、入谷仙介先生がおっしゃっていたこと、
王維の詩を長らく読んできて、
彼が参照している書物がだいたいわかった。
経書、『文選』、それから『藝文類聚』、これくらいだ。
意外と少ない。
もしかしたら、『史記』や『漢書』もあったかもしれません。
(上記のこと、私の記憶違いだったらごめんなさい。)
が、『藝文類聚』はたしかに含まれていました。
私から見れば、全然「意外と少ない」ではありませんが、
それでも、その知識のすべてに血が通っていて、
その気にさえなれば、自分の糧にできそうな感触があります。
古人と現代人と、脳の容量はそれほど増減していないでしょうから、
その限られた記憶容量の中に納まるものの質の問題でしょう。
自分にとって関係のないものは、
もう流していっていいのではないかと思っています。
それではまた。
2019年9月24日