文学研究における根拠とは
先週末、中国文芸座談会(九州大学中国文学会)に出かけました。
その中で聞いた、東英寿さんの「吉州本『近体楽府』考」が非常に面白かった。
いずれ公刊されますし、ここで私が内容を紹介する必要はありませんが、
ただ自分として言いたいのは、ピントの合った結論を聞いて感嘆、納得したこと、
そして、そこから様々なことを考える契機が与えられたということです。
昨今よく聞く所謂エビデンスということ、
客観的な、たとえば数値で表せるような根拠を示せという要求に、
文系学問、特に歴史的に古い文献学的研究の多くはなかなか対応できません。
ですが、版本研究などは、自分の目で見て、その真実の姿を指し示すことができる、
それが揺るぎのない根拠となって、皆を納得させることができます。
(近年、こうした研究に多く人が集まるのは、こうした背景もあるかもしれません。)
では、作品研究や文学史研究はどうなのだろう。
自分が望む結果になるような勝手な解釈や構想は自戒する、
ですが、それを、目に見えるたしかな形として示すことは非常に難しい。
示せた、と自分で思っても、他者がそれを認めるかどうかはまた別問題ですし。
このあたりのところ、大きな壁を感じることが少なくありません。
恩師の岡村繁先生はさる論文の中で(思わず、でしょうか)、
“これが納得できないなら文学研究なんかやめた方がましだ”といったことを書かれている、
先生でさえ苦労されたのだから、ましていわんや自分のごときをや、です。
(最近、考え抜いた論と思いつきとの区別がされにくい傾向があるように思います。)
ところで、歴史学者の宮崎市定は、『九品官人法の研究』はしがきの中で、
書いてないことは信じない、という清朝考証学のやり方には限界がある。
(およそ当時として当たり前のことは書かれていないのだから。)
考証は、ある段階まで来たら一段の飛躍が要求される。
記録に書かれていないことをも、史実の延長として復原しなければならない。
自分のこの研究は、伝統的考証学の見地から見れば隙だらけだろう。
だが、これを否定して別の体系を立てることは、おそらく容易なことではないだろう。
といったような内容のことを書かれています。
文学史研究においては、常々こうありたいと思っています。
それではまた。
2019年9月30日