文献研究とフィールドワーク

昨日の続きのようなもの。

東英寿編『宋人文集の編纂と伝承』(中国書店、2018年)序文に、
  本書はもちろん文献研究であるが、フィールドワークとして捉えることもできる、
  宋代社会という過去の世界に赴いておこなったフィールドワークなのだ、
といった内容のことが書かれています。

これにはまったく同感です。
私も、自分は文献における路上観察学を目指す、と思っていたし、今もそうです。
(赤瀬川原平(尾辻克彦)の書くものが大好きだったのです。今も。)

ここにいう文献研究とフィールドワークとの間には共通点があります。
それは、自分という枠の外へ踏み出して、そこで拾い上げたものを考察するということです。

では、そこに自分はないのか、といえば、ないはずがない。
他方、純然たる客観性がそこにあるのか、といえば、それはないと思います。
再現性が重視される自然科学とは異なって、人文学には本質的にそれは求められないと思う。

宮崎市定『中国史』(岩波全書、1977年)はその冒頭で、
歴史は客観的な学問であるから、誰が書いても同じ結果になる、
という考えは捨ててほしい、と若い読者に向けて語り掛けておられますが、
その通りだと私も思う。

 「思う」と言えば主観的で、「思われる」と言えば客観的だなんて、ごまかしです。
 忘我的考察を重ねた末に「思う」としか言い表せない判断だってあるでしょう。
 ただそれが、自己ごり押しの「思う」と表面上区別がつかない。

さて、先には自分の外へ踏み出す、と言いながら、
今、考察において自分というものがないはずはない、と言いました。
どういうことでしょう。
同じ「自分」という言葉を使ってはいますが、
前者は、小さな自己、意識で把握できる狭い範囲の自分です。
後者は、もっと広い、普遍にも通じる無意識、でもその人しか持ちえない観点。
一点凝視による独自性ではなくて、
焦点の絞られない状態で見えてきたものを掬いあげる、
その掬い上げるという行為に無意識に働く意識、それが後者の自分。

ちょっと抽象的になりすぎたので、このへんでやめます。
(でも、抽象化が無意味だとは私は思いません。)

それではまた。

2019年10月1日