近しく感じる人

演習の受講生が、後期になって複数名やめました。
(もともと10名にも満たない人数でしたが、更に少なくなりました。)
その旨を言いにきた学生(礼儀正しいですね)がいうには、
ほかの授業で忙しいから、とのこと。

前期の終わり、
「中国古典文学は半年くらいではその面白さはわからないから、
できれば後期も継続して履修することを勧めます」と言ったのですが、
後期第一週の授業が一巡したところでこうなりました。

受講生が少ないと楽だろう、自分の研究ができていいだろう、
というふうにはなかなか考えることができません。

自分は貴重なものを先人から受け取ったのに、
それをバトンタッチできる人がいない、という寂しさです。
もっとも、そんな重たいものは求められていないのかもしれませんが。

単独で行う講義も、オムニバス形式の講義も、それなりに耳を傾けてもらえる、
それなのになぜだろう、と考えて、考えても詮無いことに気づきました。
人の思うことはわからない。そこには立ち入れません。

ただ、ふと思い起こしたのが、
水村美苗『日本語が滅びるとき』*に書かれていた、
「これからの自分の読者は、自分と同じ世界を共有することはないのを知りつつ書く」
「自分がその一部であった文化がしだいに失われていくのを知りつつ生きる」
夏目漱石の寂しさです。
学識も感受性もまるでレベルが違う人なのに、とても近しく感じます。
このような人がいたということが、今の自分には慰めです。

それではまた。

2019年10月3日

*水村美苗『日本語が滅びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)p.224