曹操晩年の狂気
【電子資料】の「曹操の事跡と人間関係」が長いこと「準備中」ですが、
少しずつ確認作業を進めて、今は建安21年(216)、曹操は62歳、
本日、崔琰が亡くなりました。
『三国志』巻12「崔琰伝」によると、
もと袁紹に仕えていた崔琰は、しばしば袁紹を諫めたが聞き入れられず、
官渡での敗戦の後、袁紹の息子たちは争って彼を召し抱えようとしたが、病気を理由にこれを固辞し、
曹操が袁氏を破って冀州牧となると、その招きに応じて別駕従事となった、とあります。
誰に仕えるべきか、崔琰は冷静に見極めたのでしょう。
とはいえ、彼は曹操にただ追従していたわけではありません。
新たに得た冀州の戸籍を調べて、兵士の人数を数え上げる曹操に対して、
崔琰は、まず民をねぎらい、彼らの塗炭の苦しみを救うことが先決だとの苦言を呈しました。
曹操は表情を改めて陳謝し、その場にいた賓客たちは色を失った、とあります。
また、崔琰の兄の娘は曹植に嫁いでいましたが、
春秋の義をもって、長子の曹丕を跡継ぎに推したことは先にも触れました。
曹操は、崔琰の私心のない公明正大さに感嘆したといいます。
このような崔琰は、曹操にとってどのような存在だったのでしょうか。
崔琰の書簡を曲解して貶める、ある者の上奏を簡単に信じ、
懲役囚となってもくじけた様子のない崔琰について、
「刑罰を受けていながら、家には賓客を通し、門は市場の人のような賑わいだ。
賓客に対して虯のような鬚で直視し、まるで怒って目をむいているかのようだ。」
との令を発し、崔琰に死を賜った、と本伝に記されています。
第一級の知識人である人物と、宦官家出身の新興権力者たる曹操。
権力者に対してまったく媚びることをせず、是々非々を貫く崔琰に対して、
曹操は常々言い知れぬ脅威を感じ、劣等感を覚えていたのでしょう。
晩年になるほどに、それが狂気を帯びてくるようです。
それではまた。
2019年10月7日