未知の世界の捉え方
大阪の国立民族学博物館で「驚異と怪異」展を見てきました。
不思議な生き物を、それが生息する地域とともに記録した『山海経』、
これが、中国の伝統的図書分類法では史部地理類に位置付けられるのが不思議でしたが、
こうした世界観は必ずしも不思議ではないということに気づかされました。
聞いたことはあるが、実際には見たことのないものを、
なかったことにはせず、よく知っている世界の、その向こうに位置付ける、
未知の世界を、地理学的観点から、我が世界観の一隅に引き入れる、という発想が、
洋の東西を問わず存在することがわかったからです。
およそ人間は(大きく出ますが)、未知のものと出会ったとき、
それを、時間軸の、たとえば遠い過去、あるいは未来に位置付けるのではなく、
(ただし、チベット仏教の占いでは、暦という時間軸を加えて図式化するそうですが。)
あくまでも空間的に把握しようとするものなのだなあ、と。
自然科学誕生以前の彼らの心中を想像するに、恐怖と好奇心の坩堝だったことでしょう。
さて、もと地理書として位置づけられていた前掲の『山海経』は、
現代の、たとえば『中国叢書綜録』では、子部小説家類に分類されています。
では、この書物は、いつ頃、地理書から小説家類へと捉えなおされたのでしょうか。
宋元の間の馬端臨『文献通考』では、新旧『唐書』と同じ史部地理類ですが、
元代に編纂された『宋史』では、子類・五行類に位置付けられています。
ところが、明代の焦竑『国史経籍志』ではまた、史部地里(方物)に戻っています。
というか、この間、書物の捉え方がまだ揺れ動いていたということでしょう。
清朝の『四庫全書総目』に至れば、現在と同じ、子部小説家類に位置付けられます。
この間の推移をざっと通覧した限りでは、
『山海経』を地理書と捉える見方はかなり長く続いたことが知られます。
たとえば、今は志怪小説とみなされる『捜神記』は、
『旧唐書』経籍志(唐代)と『新唐書』藝文志(宋代)との間で、
史部雑伝類から子部小説家類に移されるという大きな変化を通過していますが、
これに比べると『山海経』の変化はずいぶんと緩やかだという印象を持ちました。
明代あたりの人々は、私たちと近いようでいて、実はかなり異質な世界の住人だったのですね。
(専門外の人間が当たり前のことばかりを書いているかと思います。お許しください。)
それではまた。
2019年10月15日