叔父への尊崇
先日来述べてきたように、
曹植ら諸王が始めて元旦の朝会に招かれたのは太和六年、
その前年の八月、明帝は次のような詔を出しています(『三国志』巻3「明帝紀」)。
昔者諸侯朝聘、所以敦睦親親協和万国也。
先帝著令、不欲使諸王在京都者、謂幼主在位、母后摂政、防微以漸、関諸盛衰也。*
朕惟不見諸王十有二載、悠悠之懐、能不興思。
其令諸王及宗室公侯各将適子一人朝。
後有少主、母后在宮者、自如先帝令、申明著于令。
昔、諸侯の朝聘せらるるは、親親を敦睦せしめ万国を協和せしむる所以なり。
先帝は令を著し、諸王をして京都に在らしむるを欲せざるは、謂ふに幼主の位に在り、母后の摂政せるとき、微以て漸(すす)むを防ぎ、これを盛衰に関らしむればなり。
朕惟(おも)ふに諸王に見えざること十有二載、悠悠たるの懐ひありて、能く思ひを興さざらんや。
其れ諸王及び宗室公侯をして各(おのおの)適子一人を将(ひき)ひて朝せしめよ。
後に少(わか)き主有り、母后宮に在るときは、自ら先帝の令の如くすること、申明して令に著す。
他方、同年、曹植は「求通親親表」(『三国志』巻19「陳思王植伝」、『文選』巻37)を奉り、
これに対して明帝は、その返答の詔の結びで次のように述べています。
已勅有司、如王所訴。
已に有司に勅して、王の訴ふる所の如くす。(同「陳思王植伝」)
さて、冒頭に示した明帝の詔と曹植の上表とは、いずれが先行していたのでしょうか。
ほぼ同時にそれぞれが著した、つまり行き違いになってしまったため、
明帝は曹植に、「訴えの件はすでに所管の役人に命じて対応させている」と伝えたのか、
それとも、曹植の上表を受けて冒頭の詔が下され、明帝は重ねて曹植にそのことを伝えたのか。
私にはどうも、後者のように思えてなりません。
何らかの契機がなければ、明帝は諸王を呼び寄せようとは思い至らなかったのではないか、
そして、その契機こそが、曹植の上表だったのではないかとの仮説です。
更に言えば、太和六年の元旦の会に諸王が招かれた前年のこととして、
「其の年の冬、諸王に詔して六年正月に朝せしむ」と「陳思王植伝」に見えていますが、
これも、曹植の「請赴元正表」を受けての詔であった可能性があると考えます。
以上を要するに、
曹植の「求通親親表」を受けて、明帝の太和五年八月の詔が下され、
この詔を受けて、曹植は更に「請赴元正表」を奉り、
この上表を受けて、同年冬の詔が下され、かくして太和六年元旦の朝会が実現した、
このように見ることができるのではないかと思うのです。
曹植と明帝との関係は、曹植と兄文帝との関係とは当然のことながら異なっています。
曹植の「求通親親表」に対する明帝の丁重な返答は、その現れの一斑でしょう。
それではまた。
2019年12月26日
*冒頭に示した明帝の詔にいう「先帝」「幼主」「母后」とは誰を指すのだろうか。「先帝」は文帝曹丕。「母后」が卞皇太后だとすると、「幼主」は後の明帝曹叡か。だが、文帝が即位した220年、曹叡はすでに16歳、幼いとは言えない年齢である。しかも、彼が太子に立てられたのは、文帝最晩年の226年であった。「幼主」とは、特定されない未来の君主か。それとも一般論なのか。