似非学者

昨日紹介した曹植「請祭先王表」は、『太平御覧』巻526に引かれています。
そして、そこでは、曹植の上表文に続けて、ことの顛末が次のように記されています。

博士鹿優韓蓋等以為礼公子不得禰先君、公子之子不得祖諸侯、謂不得立其廟而祭之也。礼又曰、庶子不得祭宗。
詔曰、得月二十八日表、知侯推情、欲祭先王於河上。覧省上下、悲傷感切、将欲遣礼以紓侯敬恭之意、会博士鹿優等奏礼如此。故写以下。開国承家、顧迫礼制、惟侯存心、与吾同之。

博士の鹿優・韓蓋等は次のように考えた。礼に、公子は先君を禰(父のみたまや)とすることはできないし、公子の子は諸侯を祖とすることはできない、とあるが、これは、その廟を立てて祭ることはできないという意味である。礼にはまた、庶子(非嫡子)は宗廟を祭ることはできない、ともある。
文帝の詔に曰わく、「月二十八日の表を落手して、侯(臨菑侯である曹植)が推情(?)して、先王を河上に祭りたいと願っていることがわかった。上表を最初から最後まで仔細に読むと、悲傷の思いが切々と迫ってきて、いざ贈り物を送って侯の敬恭の思いを緩和しようとした矢先、ちょうど博士の鹿優等が、礼ではこうなっていると上奏してきた。だから、以下のとおり書す。国を開き家を継いだ者は、礼の制度を厳正に守らねばならない。ただ、侯が心に念じていることは、自分もこれを共有している」と。

魏王として遵守すべき礼制において、曹植の立場で父を祭ることは禁じられている、
だから、その申し出を許すわけにはいかない、と。これは、一見まっとうな判断のように思われます。
ですが、なにか胡散臭さを感じる、それにはいくつかの理由があります。

まず、博士らの提示した「礼」というものの信憑性です。

彼らが根拠にした一つ目の「礼」は、『儀礼』喪服にいう次の部分からの引用です。

諸侯之子、称公子。公子不得禰先君。
公子之子、称公孫。公孫不得祖諸侯。
諸侯の子は、公子と称す。公子は先君を禰とするを得ず。
公子の子は、公孫と称す。公孫は諸侯を祖とするを得ず。

先の博士らは、これを不自然なかたちで切り取って提示していました。
そもそも、曹植は曹丕の弟、曹操の子であって、魏国の諸侯の子ではありません。*

「又曰」として引かれた「礼」は、『礼記』喪服小記の次の部分が最も近いでしょう。

庶子不祭祖者、明其宗也。
庶子が祖を祭らざるは、その宗を明らかにするなり。

ですが、この前の部分には、
諸侯の庶子(非嫡子)で後世に始祖となった者を「祖」といい、
その「祖」を引き継いでゆく者のことを「宗」という旨が記されています。
更にその前には、庶子が王となった場合のことについての記述が見えています。

鹿優らは、曹植が父曹操を祭ることは礼制に照らして不可であることを言うために、
上記の『儀礼』や『礼記』を引用しているのだと思われますが、
判断内容の根拠とするには文脈がずれています。

そんな博士の言うことを、待ってましたとばかりに聞き入れる曹丕。
むしろ博士らは、曹丕の心中を忖度して上奏したかとさえ勘繰ってしまいます。

なお、博士の鹿優や韓蓋は、『三国志』にその名が見えません。
当代一流の儒学者というには足りない人々のようです。

それではまた。

2020年1月14日

*厳密にいえば、当時はまだ後漢王朝が存続しているので、魏王国は諸侯という位置づけになるのかもしれない。すると、曹操が「諸侯」だとして、その子である曹丕も曹植も、「諸侯之子」すなわち「公子」であって、「先君を禰するを得ず」となる。(2020.01.17追記)