凡庸な統治者
昨日の続きです。
父曹操を祭りたいと申し出た曹植に対して、曹丕はこれを許しませんでした。
その根拠は、礼の決まりごとを示す博士たちの上奏文です。
曹丕のこの判断は、本当に統治者としての公正さに発するものであったのか。
こう疑問に感じざるを得ないのは、同時期の彼に次のような言動が残っているからです。
『三国志』巻2「文帝紀」によると、
曹操の没後(220年1月)すぐに魏王となった曹丕は、同年6月、南方へ出征し、
7月、軍は譙(曹氏の出身地)に駐屯し、土地の人々も招いて大宴会を開いています。
その裴松之注に引く『魏書』によると、
宴席には伎楽百戯が設けられ、譙の租税を二年間免ずる令が発布されたといいます。
(生まれ故郷を特別扱いするのは為政者としてどうなのでしょう。)
同裴松之注に引く孫盛(歴史書『魏氏春秋』の著者)の批評では、
父曹操の服喪期間であるにも関わらず宴席を設け、
また、禅譲を受けるや漢帝の娘を後宮に納れた曹丕の行動を取り上げて、
ここに曹魏王朝の短命であった理由があるとしています。
もし、為政者として、礼制度を厳正に執り行おうというならば、
このような行いに出ることはないはずでしょう。
さて、この年の暮れ、曹丕が漢王朝から禅譲を受けたとき、
曹植は、父曹操の思いに応えられなかった自分の不甲斐なさを思って哭したといいます。
ところが、曹丕は後日このことを思い出して左右の者にこう言いました。
「人の心は同じでないものだ。私が皇位に登った時、天下に哭する者がいた。」
(同巻16「蘇則伝」裴松之注に引く『魏略』)
曹植が哭した理由を、曹丕はおそらく取り違えています。
こうしたエピソードからも、
曹丕が曹植の「請祭先王表」を承認しなかった真の理由は、
礼制の堅守とは別のところにあったのではないかと感じられてなりません。
それではまた。
2020年1月15日