文学者の人生と作品

六朝末、梁代の文学評論集、劉勰『文心雕龍』の才略篇には、
曹丕・曹植兄弟の優劣や持ち味の違いについて、次のような論及が見えています。*
今、その内容をかいつまんで示します。

曹丕はなかなかの才能の持ち主であるのに、昔から曹植には遠く及ばないとされてきた。
とはいえ、二人は異なる個性を持っているのであって、曹丕もまた凡庸ではない。
ただ、世俗の毀誉褒貶は、とかく付和雷同するものであって、
曹丕は、地位が高かったことを理由に、その才能への評価が低められ、
曹植は、不遇であったという理由で、その文学的評価が高められることとなった。
これは、行き届いた精確な評価であるとは言えない。

興味深いのは、ここで疑問視されている“世俗の毀誉褒貶”(原文では「俗情抑揚」)です。

まず、不遇な者に肩入れする判官びいきを、自分もしていないか検証すべきだということ。
そしてもう一つ、ここに劉勰が述べていることを契機として考えたいと思ったのが、
文学者の人生にかかる負荷とその作品の完成度との関係についてです。

社会的に不遇な文学者は、必ずその作品が光り輝くというわけではもちろんありません。
ですが、後世にまで残る作品は、どういうわけか不遇な人の手になるものが多い。
これは、現実参加を旨とする中国文学ならではの現象なのでしょうか。
それとも、広範な社会に認められる普遍の法則なのでしょうか。
劉勰はそれを「俗情」の付和雷同と断じているのですが、本当にそう言えるかどうか。

それではまた。

2020年1月21日

*興膳宏『詩品(中国文明選13・文学論集)』(朝日新聞社、1972年)p.144から教示を受けた。また、『文心雕龍』の読解に当たっては、同氏による訳注(一海知義・興膳宏『陶淵明 文心雕龍(世界古典文学全集)』筑摩書房、1968年)を参考にした。