語られる言葉の揺れ
曹植「鼙舞歌・霊芝篇」には、様々な孝行息子たちが登場します。
頑迷な父、口やかましい母に孝養を尽くした虞舜。
親の前で幼児のごとく振る舞い、母の笞が痛くなくなったといって泣く伯瑜。
亡き親をかたどった木人に仕え、これを凌辱した隣人を殺して処刑されようというとき、
木人が涙を流すという超常現象が生じて罪を免れた丁蘭。
父の葬式を出すためにこしらえた借金に苦しんでいたところを、天の織女に救われた董永。
さて、曹植が詠ずるこうした孝子の物語には、
現存する文献に記されたそれとは少しく異なっている部分があります。
まず伯瑜について。
彼が、母の笞に痛みを感じなくなり、親の老いを悟って泣いたことは、
たとえば『説苑』建本篇に記されたところとよく重なります。
ですが、七十歳にして幼児のようななりで親を楽しませたというエピソードは、
師覚授『孝子伝』(『太平御覧』巻413)などでは、老莱子のこととして記されています。
また董永の借金苦について。
曹植の歌では、「責家填門至(借金取りが家にたくさん押し掛けた)」とありますが、
劉向『孝子図』(『太平御覧』巻411)などでは、彼に金銭を貸したのは雇い主ひとりであり、
しかも、彼は孝行者の董永に対して非常に好意的な人物として描かれています。
一方、虞舜の故事については、『尚書』堯典に記されたところが丁寧に踏襲されています。
また、詩歌の後半に見える「蓼莪」(『詩経』小雅)や「凱風」(同邶風)は、
その詩の趣旨をきちんと踏まえた上での援用が為されています。
曹植はこのように、古典に対する確かな教養を身に付けていた人です。
すると、上記の2件を、曹植の記憶違いと言い切ってよいものか、ためらいが生じます。
曹植の詠ずる孝子物語が、現存する文献と食い違っていることをどう捉えるか。
まず、こうした物語は、口承文芸として複数のバージョンが出回っていたでしょう。
そのうちのひとつを取り上げて、曹植は「鼙舞歌・霊芝篇」に詠じた。
そして、各種の孝子伝類の著者たちもまた、たまたま自身の耳に入った物語を書き留め、
それらの孝子伝のうちのいくつかが、たまたま現在にまで伝わった。
だから、曹植の詠ずるところと伝存する文献に記すところとの間に間々違いが見られるのだ。
と、このように捉えてはどうでしょうか。
そういえば、「二桃殺三士」の故事についても、
曹植の「古冶子等賛」と『晏子春秋』の記事との間には小さな食い違いがありました。
「霊芝篇」に詠われた伯瑜や董永と、同様に見ることができると思います。
それではまた。
2020年1月22日