東晋時代の「清商三調」
西晋の宮廷歌曲群「清商三調」は、
永嘉の乱(311)で王朝が瓦解し、宮廷楽団が離散して以降、
417年、劉裕(劉宋の武帝)が後秦を滅ぼして魏晋の音楽を奪還するまで、
その楽曲を演奏する楽人たちの多くは、北方の異民族王朝に身を置いていました。*
とはいえ、魏晋の楽をよくする人々の全員が、こうした閲歴をたどったわけではありません。
楽人ではありませんが、「清商三調」を達者に演奏する人は、
東晋時代、北来の貴族(西晋王朝が滅亡して南下してきた)の中にもいました。
たとえば、先日来話題にしている「怨歌行・為君」は、
孝武帝(司馬曜)と謝安の面前で、桓伊が笛を伴い筝を奏でつつ歌っています。
(『世説新語』任誕篇劉孝標注に引く『続晋陽秋』、『晋書』巻81「桓宣伝付桓伊伝」)
そして、前掲『世説新語』の本文、及び前掲『晋書』本伝の前には、
王徽之に呼び止められた桓伊が、笛で「三調」を演奏したという記事が見えています。
考えてみれば当たり前のことなのかもしれませんが、
『隋書』音楽志、『魏書』楽志、『通典』楽典、『旧唐書』音楽志などを見ていただけでは、
自分にはこうした小さな事実を知ることはできなかったと思いました。
桓伊の歌った「怨歌行」の歌辞が上記の『晋書』本伝に記されていることを、
私は『北堂書鈔』巻29の孔広陶の校註によって知り得ました。
それではまた。
2020年2月6日
*拙著『漢代五言詩歌史の研究』(著書4)p.299~300、315を参照されたい。