原典の読解と翻訳の閲覧
曹植作品に見える典故表現の原典に当たる際、
最近になって、日本語による訳注本をも参照するようになりました。
こんなことは至極当たり前のことなのかもしれませんが、
私はこれまで、たとえば儒教の経典だったら「十三経注疏」所収のものをまず見て、
翻訳や日本語による注釈などは努めてこれを見ないようにしてきたのです。
最近、こうした先人の研究成果を参照するようになって、多くのことを教えられています。
読み解くことを省力化しているのではなくて、先達に教えを受けていると思えばいいのですね。
このように、ある意味傲慢な態度でこれまでやってきたのですが、
(太古の昔から伝わる古典を自力で読めるはずだと思っているわけですから。)
若い頃から訳注本にすぐ手を伸ばすことを自ら禁じてきたことはあまり後悔していません。
時にとんでもない誤解をするし、得られた知識の量も比較的少ないと思いますが、
古典を素手でつかむという体験はやっぱり何物にも代えがたいものです。
それに無知なりに原典を読んできたある種の飢餓感があればこそ、
先達の教えをありがたく受けることができます。
そういえば、大学時代の『文選』李善注の演習で、
ある同学が、人名をそれと知らずに、なんとか意味のある文に訳したことがあります。
その時、恩師の岡村繁先生は破顔一笑され、それでいいのや、と言われた。
また、本文の通釈がなかなか適切なところに着地しないときに、
はじめて先行する訳注本を学生に確認させ、その是非をコメントされていました。
定説をひっくり返す先生の新見地は、このような地道な研究から生まれたと思っています。
それではまた。
2020年3月17日