陸機と曹植
こんばんは。
『文選』巻24、曹植「贈白馬王彪」詩の、
冒頭「謁帝承明廬(帝に謁す 承明の廬)」に対して、
李善注は、陸機の『洛陽記』から、次のような記述を引いています。
承明門、後宮出入之門。
吾常怪「謁帝承明廬」、問張公、
云「魏明帝在建始殿朝会、皆由承明門。」*
承明門は、後宮への出入口の門である。
私は常々、「謁帝承明廬」に関して疑問に思っていたので、張公に問うと、
「魏の明帝が建始殿で朝会を開くとき、参列者はみな承明門を通って入ったのだ」と言われた。
西晋文壇を代表する陸機(261―303)は、三国呉の名門士族の出身。
祖国が西晋に敗れ(280)、故郷で約十年間の研鑽を積んだ後、
三十歳を目前に、かつての敵国に出仕しました。
上文に見える「張公」は、陸機ら呉人に目を掛けた張華(232―300)でしょう。
張華は、西晋王朝の重臣であり、文壇の領袖でもありました。
ここに示された陸機の疑問は、
「承明」という名の建築物について、
曹植詩に詠じられた、皇帝への謁見の場としてのそれと、
一般に言われている、後宮への出入り口としてのそれとが結び付きにくい、ということでしょう。
これに対して、張華は先のように答えたのでしたが、
ただ、建始殿での朝見は、明帝以前から行われていたようです(『三国志』巻17・張遼伝ほか)。
さて、上記の文献で私が強く興味を引かれるのは、
呉人である陸機が、魏の曹植の作品によく親しんでいたということです。
その辞句に関する疑問を張華に問うたのは、それを理解したいからこそでしょう。
つまりそれは愛読していたということにほかなりません。
曹植(192―232)は、陸機の祖父、陸遜(183―245)とほぼ同じ時代を生きた人です。
陸機は、どのような思いで彼の作品を読んでいたのでしょうか。
*「在」字、もと「作」に作る。今、『文選』巻21、応璩「百一詩」の李善注に引く同文献によって改める。
2020年4月20日