陸機と曹植(続き)

こんにちは。

陸機と曹植との表現上のつながりについて、先にも少し言及したことがありますが
それに加えてもう一つ、次の事例をここに書きとめておきます。

陸機「贈馮文羆(馮文羆に贈る)」(『文選』巻24)の冒頭、

昔与二三子  その昔 心を許したそなたたちと、
游息承華南  承華門南の東宮で、ゆったりと過ごしたことがあった。

この表現は、曹植「贈丁廙」の、次に示す句を想起させます。
(詳細はこちらの訳注稿をご参照ください。)

吾与二三子  私は気心知れた二三の友人たちと、
曲宴此城隅  この宮城の片隅で内輪の酒宴を設ける。

両詩には、「与二三子」というフレーズが共通して用いられています。

「二三子」は、『論語』述而篇に出る語ですが、
意外にも、現存する漢魏晋南北朝詩の中で、それほど多くの用例は認められません。
そして、その上に「与」を置く例となると、前掲の両詩のみです。

陸機詩の贈り先である馮文羆は、陸機と同じく呉の人で、
西晋王朝という異郷に出仕してから、いよいよ同郷どうしの仲を深めたと見られます。

一方、曹植が詩を贈った丁廙や、その兄の丁儀らは、
曹植の才能を高く評価し、魏王曹操の後継者として彼を強く推した人々で、
彼らはこのことにより、曹魏政権内でやや特殊な一派を形成することとなりましたが、
そうした側近たちに対して、曹植は常に友として厚遇する姿勢を保ち続けました。

陸機は、特別なきずなで結ばれた同郷の士を思うとき、
曹植を自身に重ねていたのかもしれません。

なお、南朝後期の江淹(444―505)「雑体詩三十首」(『文選』巻31)は、
曹植詩に模した「陳思王」の題下に「贈友(友に贈る)」と記し、
その詩中には「眷我二三子(我が二三子を眷る)」という句を含んでいます。
いかにも曹植らしい表現として、江淹も「二三子」という語に注目していたのでしょう。

2020年4月21日