今年の授業では

こんばんは。

連休明けにようやく授業が始まりますが、
今年はこれまでやったことのないオンラインでの授業、
しかも例年になく受講生が多いので、どう進めるか思案中です。

中国古典文学を教えていて、いつも説明が難しいと感じるのは、
たとえば、(吉川幸次郎の)現実参加の志といった言葉で表現される、
あるいは、西洋のノブレス・オブリージュといった概念に置き換えて語られる、
日本文学には比較的希薄な、中国文学が持つ社会性です。

芸術作品(文学を含む)が社会的な運動に利用されること、
あるいは、表現活動には社会的メッセージが必須だという声高な主張に対して、
自分自身がずっと心理的な抵抗感を感じ続けてきたものですから。

かなり長い時間を考え続けて、
今は、たとえばこういうことなのだろうと思っています。

笑いに風刺が必須なのではなく、風刺には笑い(遊び)が必要なのだということ。

文学に、現実参加の志が必須なのではなくて、
人が社会の中で生きる上では、文(あや、すなわち美)あるものが必要だということ。

もちろん、人は人間(じんかん、つまり社会)の中に生きています。
本人が意識しているといないとにかかわらず。
そして文学は、そうした人間(にんげん)が作り出すものです。
これは大前提としてあると思います。

今年こそは、分かってもらえるように話せるだろうか。

2020年4月23日