歌辞の継承

こんにちは。

先だって触れた西晋の陸機に、「従軍行」(『文選』巻28)と題する楽府詩があります。

苦哉遠征人  苦しきかな、遠征の人は、
飄飄窮四遐  飄々とあてどなく、世界の果てまでも行かねばならぬ。

という句に始まり、結びでも再び次のように歌います。

苦哉遠征人  苦しきかな、遠征の人は、
撫心悲如何  胸をなでても、この悲しみは如何ともしがたい。

ここに繰り返されているフレーズ「苦哉遠征人」は、
魏の左延年による「従軍行」(『楽府詩集』巻32に引く『楽府広題』)の冒頭、
「苦哉辺地人(苦しき哉 辺地の人は)」を明らかに踏襲しています。

従軍を題材とした詩歌であれば、
魏を代表する文人、王粲に「従軍詩」(『文選』巻27、『楽府詩集』巻32)があります。
それなのに陸機はなぜ、王粲ではなく、左延年という楽人の作った歌辞を継承したのでしょうか。*

西晋の宮廷音楽を司った荀勗による記録「荀氏録」には、
左延年のこの楽府詩が著録されています。(『楽府詩集』巻32に引く王僧虔「技録」)

すると、左延年の「従軍行」は西晋王朝の宮中で歌われていたということでしょう。
陸機は、西晋に出仕してから必ずやこの歌曲を耳にしていたはずです。
左延年の第一句を踏襲する陸機「従軍行」は、こうした経緯で誕生したのではないでしょうか。
この場合は、演奏されていた歌曲を仲立ちとしての継承だと考えられます。

一方、南朝宋の顔延之(384―456)にも「従軍行」があり、
その第一句は、先に見た陸機の歌辞「苦哉遠征人」とまったく同じです。

このことについて、顔延之は陸機の楽府詩を踏まえたのだと私は考えます。
(左延年が、西晋の陸機と南朝宋の顔延之の双方に影響を与えたと見るのではなくて)

というのは、前掲の王僧虔「技録」に、
左延年の「従軍行・苦哉」は、今は伝わらない、と記しているからです。
王僧虔「技録」は大明三年(459)の記録で、その内容は顔延之も共有していたでしょう。

南朝の文人たちにおける陸機の強い影響力がうかがえます。

*曹道衡「論『文選』中楽府詩的幾個問題」(『国学研究』第3巻、1995年)の提起した問題意識。氏の所論は、王粲の作品は、徒詩であって、楽府詩ではなかったというところに収斂していくが、上述の私見は、これに触発されて別方向へ展開させたものである。

2020年4月24日