要再考ばかり
こんばんは。
先日、黄初四年の曹植として、
「洛神賦」(『文選』巻19)の序にいう「黄初三年」は、
実は「黄初四年」である可能性が高いことを、李善注を援用しつつ述べました。
ところが、やはり「黄初三年」で正しいのかもしれないと思えてきました。
というのは、「上責躬応詔詩表」(『文選』巻20)の初めに次のような記述が見えているからです。
臣自抱釁帰藩、刻肌刻骨、追思罪戻、昼分而食、夜分而寝。……
臣(わたくし)は罪を抱いて国に帰ってから、
肌に刻み骨に刻んで、自分の犯した罪を思い起こし、
昼も半ばになってから食事をとり、夜も半ばになってから就寝するという有様でした。……
そして、この上表文の終わりの方には、
思いがけず詔が下されて朝廷に参内する機会が与えられたこと、
そして、今はまだ皇帝に謁見することができずにいることが述べられています。
この上表文が黄初四年に作られたことは間違いないので、
先に挙げた冒頭の「釁を抱きて藩に帰る」とは、それ以前のこととなります。
曹植は黄初四年よりも前に、上京して罪状を申し渡されるようなことがあったということでしょう。
それが、「洛神賦」の序に刻まれた時と重なるのかもしれません。
なんだか訂正ばかりしているような気がしますが、
すぐには読めないし、適切な判断ができないのだから仕方がありません。
ともかく、曹植の全作品を読み通したいと思います。
そうすれば、作品相互の連関性から事実が自ずから立ち上がってくるはずです。
2020年6月25日