再び黄初四年の曹植
こんばんは。
このところ行ったり来たりしている黄初四年の間ですが、
五月に鄄城王として上京し、七月に同国へ帰国(「贈白馬王彪」序文)、
その後に雍丘王に移されたと見られます。
(訳注稿[04-05-5 雑詩 六首(5)]では根拠を示していませんでした。)
伊藤正文『曹植』や張可礼『三曹年譜』は、*
朱緒曾『曹集考異』(巻5「応詔詩」下の記述)を援用しつつ、夙にこの説を取っています。
「責躬詩」に、王爵が加えられたことは記されているが、
他の国へ移されたことの記述は見えない、
これが朱緒曾説の主な根拠です。
これに加えて、次のような点からも、如上の説の妥当性を後押しできるように思います。
『三国志』巻19「陳思王植伝」に、こう記されています。
四年、徙封雍丘王。其年、朝京都。上疏曰、……
黄初四年、雍丘王に移された。その年、都で文帝に謁見した。その上疏に言うところでは、……
そして、その上疏(『文選』巻20には「上責躬応詔詩表」として収載)、
及び「責躬詩」「応詔詩」(『文選』同上にはこの題名で収載)を全文引いた後に、
次のような文章が続きます。
帝嘉其辞義、優詔答勉之。
文帝はその上疏及び二首の詩の言葉と内容を褒め、優遇の詔で答えて彼を励ました。
六年、帝東征、還過雍丘、幸植宮、増戸五百。
黄初六年、文帝は東方の呉へ出征し、帰還するとき雍丘に立ち寄り、
曹植の宮殿に行幸して五百戸を加増した。
このような記述の流れからすると、
陳寿は、黄初四年に曹植が雍丘王に移されたことを示した後、
この出来事のきっかけとなった彼の詩文と、
それが文帝曹丕の心情に及ぼした影響を記したのだと見ることができそうです。
もしそうだとすれば、朱緒曾のいうとおり、
この年の秋から冬、曹植は鄄城から雍丘に移されたということになるでしょう。
上述のとおり、都洛陽から帰国したのは七月でしたから。
更に言えば、雍丘は、呉楚へ向かう上で、鄄城よりも地の利があって、
この地に移されたのは、曹植の思いに応える趣旨のものであったのかもしれません。
「責躬詩」や「雑詩六首」其五、其六に呉討伐への意欲が詠じられていること、
そして、二年後、文帝が東方征伐からの帰りに雍丘へ立ち寄っていることからすれば、
そう推測することも許されるのではないかと思いました。
2020年6月26日
*伊藤正文『曹植(中国詩人選集)』(岩波書店、1958年)、張可礼『三曹年譜』(斉魯書社、1983年)。