中島敦の「弟子」

こんにちは。

明日の概説的な授業では、儒教をテーマに話をする予定で、
その素材のひとつとして、今年初めて中島敦の「弟子」を取り上げます。

現代人にとって、儒教はあまり魅力的な思想のようには捉えられていません。
ですが、漠然としたイメージで敬遠し、葬り去るにはあまりにも惜しい。
なぜ負の先入観を持たれるかといえば、それは、彼我の間に壁があるからでしょう。

そんな壁をほかならぬ著者自身が自覚し、その異物感と対話しながら、
儒教という思想の本質、孔子の思想家としての魅力を描いているのが本作品です。
だから、私たち現代人が儒教にアプローチする上で、とてもよい“文献”だと考えたのです。

「弟子」は、主に子路の視点から、孔子のあり様を描いています。
子路たち弟子が孔子に対して投げかける問いは、
おそらく、中島敦の儒教に対する疑問と重なっているでしょう。
それは、私たちが儒教に感じる違和感を言語化して見せてくれるものです。

また、子路の目に映じた孔子の姿には、
私たちには見えづらい儒教の本質が、凝縮されて現れています。
中島敦の精神の中には、やはり儒家的な筋が通っていた。
それは、英国のスティヴンスンを主人公とする「光と風と夢」にも感じるところです。

ところで、子路と孔子との関係は、
師匠から授けられた教えを、弟子が後生大事に守り抜くというようなものではありません。
師弟が対等にディスカッションするといったようなものでも更々ありません。

子路は、孔子の弟子たることによって仕官が有利になるだとか、
目的意識を掲げて学び、自己研鑽を図るとか、
そういったことは考えていません。
彼は、孔子の人としての奥行きに魅了され、
ただ欣然と従っただけなのだと、そんな人物像に描かれています。
美しい結晶物のようなその純粋さに私は打たれます。

2020年7月19日