曹植の中の周公旦

こんばんは。

曹植作品における周公旦は、
その時々によって異なる面に光が当たっているのかもしれません。

昨日言及した「娯賓賦」は、
父曹操の「短歌行・対酒」と同じく、
人を大切にする周公旦を引き合いに出していました。
このことは、建安年間における曹植の贈答詩と通じ合います。
この時期の彼は、周囲の文人たちを友人と呼び、手厚く誠実に応対しています。

他方、明帝期の作と推定された「惟漢行」は、
直接的な言及ではなく、婉曲なかたちで周公旦を自身に重ねていました
これは、先に検討したように、明帝を補佐する者としての覚悟から出るものでしょう。

自身を周公旦になぞらえる発想は、
もしかしたら、父曹操が亡くなった頃にすでに萌していたのかもしれません。
その父を追悼する「武帝誄」(『曹集詮評』巻10)に、
「虔奉本朝、徳美周文(虔にして本朝を奉じ、徳の美なること周文のごとし)」とあって、
父を周文王と位置付ける以上、自身は周公旦に位置付けられることになるからです。
はっきりそれと自覚したのがその時ではないにしろ。

また、「怨歌行」がもし本当に曹植の作品だとして
この楽府詩は、君主にその忠信が理解されない周公旦の不遇を詠じています。
このような周公旦は、明帝期の曹植を彷彿とさせるものです。

ひとりの歴史上の人物が、
自身の経験の堆積に伴って様々な姿を見せるようになる。
こうしたことは、そういえば私にもあります。
いえ、誰にでもあるのでしょう。
だから歴史上の人物たちは生き続けるのでしょう。

2020年7月28日