西晋時代の「相和」
こんばんは。
曹植の「相和」歌辞制作は、
一種の不敬罪に当たった可能性があると考えられる背景を昨日述べました。
では、魏王朝が西晋王朝に移ってからはどうだったのでしょう。
「相和」の替え歌を作るのは、西晋時代でも憚られるようなことだったのでしょうか。
西晋の傅玄(217―278)には、曹植と同じく、
曹操「薤露・惟漢二十二世」に基づく「惟漢行」があります。
もし傅玄の「惟漢行」が西晋時代に入ってから作られたのであれば、*1
当時「相和」はすでに、宮廷音楽としての位置にはなかったと見ることができるかもしれません。
一方、陸機(261―303)には「相和」歌辞が一首もありません。*2
彼は多くの楽府詩を残していますが、それらは「清商三調」か雑曲に属するものです。
このことをどう見るべきでしょうか。
西晋時代、「相和」はやはり宮廷音楽としての威厳を保っていたのか、
それとも、宮廷音楽ではなくなっていたけれども、陸機が新歌辞を作らなかったのか。
もし後者であった場合、たまたま心が惹かれなくて作らなかっただけなのか、
それとも、何らかの理由があって、作ることを敢えて回避したのか。
そのあたりのことを明らかにしたいのですが、
西晋王朝における「相和」演奏の実態はなんとも不明瞭です。
『宋書』巻21・楽志三では、
魏の「相和」諸歌辞の後に続けて、西晋の荀勗が編成した「清商三調」が列記され、
「相和」の宮廷音楽としての命脈については、特に明記されていません。
『楽府詩集』巻26・27・28では、
そこに収載する「相和」諸歌辞のひとつひとつに、
「魏楽所奏」「魏晋楽所奏」「晋楽所奏」といった付記が見えています。
ですが、これも以前に述べたとおり、根拠が不明です。
また同じ行き止まりに来てしまいました。
後で再び逢着したときのために、ここに旗を立てておきます。
2020年8月9日
*1 傅玄「惟漢行」が魏の時代に作られた可能性はゼロではない。その場合は、宮廷音楽の、しかも王朝の創始者が作った歌辞にかぶせて替え歌を作るということも、無名の作者であるがゆえに問題視されなかったという解釈も成り立つ。
*2 陸機の楽府詩のうち、『楽府詩集』に、狭義の「相和」に属するものとして収録されている作品はある。だが、そのいずれもが本来の「相和」ではない。「挽歌」は、『楽府詩集』巻27に、「薤露」「蒿里」に続けて収録されているが、これは内容的なつながりから関連付けられただけであろうか、明確な根拠は示されていない。また、「日出東南隅行」は、同巻28に、「陌上桑(艶歌羅敷行)」に連なるものとして引かれているが、そもそも「艶歌羅敷行・日出東南隅」は、『宋書』楽志三には「大曲」として収載される作品であり、『楽府詩集』同巻に引く陳の釈智匠『古今楽録』は、「「陌上桑」歌瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇(「陌上桑」は、瑟調古辞「艶歌羅敷行」日出東南隅篇を歌ふ)」と記す。つまり、もともと「艶歌羅敷行」は瑟調曲であったのが、ある時期からその歌辞が「陌上桑」として(その楽曲に乗せて?)歌われるようになったということである。この古辞「艶歌羅敷行」に基づくことが明白な陸機「日出東南隅行」は、もとより「相和」の「陌上桑」を踏襲したのではない。(2020.08.10追記)