新しい表現が生まれるとき
こんばんは。
教免更新講習の教材のひとつとして、
今年は柳宗元の「南礀中題」という詩(『唐詩選』巻1)を取り上げます。
次のような詩です。
秋気集南礀 秋の気が南の谷川に集まるところに、
独遊亭午時 太陽が空の真ん中に昇る頃、私はひとり散策した。
廻風一蕭瑟 ふいに巻き起こった風のなんともの寂しげであることか、
林景久参差 風に吹かれた林は、いつまでもざわざわとその姿を揺さぶっている。
始至若有得 やってきたばかりの時、何かを感得したような心地がして、
稍深遂忘疲 段々と奥深くまで分け入ってくる頃には、すっかり疲れも忘れていた。
羈禽響幽谷 他郷に身を寄せる禽鳥が、友を求めて奥深い谷に鳴き声を響かせ、
寒藻舞淪漪 寒々しい水草が、さざ波の立つ水面に舞っている。
去国魂已遠 国都を去って、魂はすでに遠く異郷を浮遊し、
懐人涙空垂 なつかしい人のことを想えば、涙がむなしく流れ落ちる。
孤生易為感 ひとりぼっちの人間はものごとに感じやすく、
失路少所宜 道を見失った者は幸運に巡り合うことなど稀である。
索莫竟何事 うらぶれたわびしさの中で、いったい何を務めとすればよいのか。
徘徊祇自知 ぐるぐると歩き回る、この心はただ自分だけが知っている。
誰為後来者 誰か、後からやって来る者となるだろうか。
当与此心期 その未来の人は、きっとこの私の心と出会ってくれることだろう。
第7・8句の「羈禽」「寒藻」について、
『漢語大詞典』では、両方とも柳宗元のこの詩を挙げて解釈していました。
ということは、珍しい詩語だと言ってよいかと思います。
興味深いのは、「禽」に「羈」、「藻」に「寒」という形容詞が付いていることです。
元来は人の心を持たない鳥や植物を見て、
「故郷を遠く離れた」「寒々しい」と感じ取ったのは他ならぬ柳宗元です。*1
彼は当時、都を追われ、南方の永州(湖南省)に流されていました。
左遷の理由は、失敗に終わった政治改革に関わったためです。
そして、そんな新鮮な言葉が、『詩経』に由来する古典語に直結しています。
「幽谷」は、小雅「伐木」にいう「出自幽谷、遷于喬木(幽谷より出で、喬木に遷る)」、
「淪漪」は、魏風「伐檀」にいう「河水清且淪猗(河水は清く且つ淪猗あり」に基づきます。*2
もちろん、柳宗元の中でその『詩経』の文脈は十分に意識されています。
「感を為し易き」「孤生」の詩人が、貶謫という逆境の中で、新たな言葉を紡ぎだした、
その瞬間にまるで立ち会ったかのように感じる読みの体験でした。
また、結びに見える「後来者」は、
『論語』子罕篇にいう「後生可畏也。焉知来者之不如今也」
(後生畏る可きなり。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや)を踏まえると捉え、
自身の理解者(今はいない)を、未来に求めているのだと解釈しました。
ただ、本当に『論語』を踏まえているのか、まだ今ひとつ釈然としないところがあります。
2020年8月17日
*1 下定雅弘『柳宗元詩選』(岩波文庫、2011年)p.69に、「「羈禽」は群れを失い漂泊している鳥。「羈禽」「寒藻」は、貶謫の身である宗元を寓している」との指摘がある。(2020.08.20追記)
*2 この二つの典故については、王国安『柳宗元詩箋釈』(上海古籍出版社、1993年)が既に指摘する。