吉川幸次郎の講演録
こんばんは。
先日、あるきっかけで『吉川幸次郎全集1』に触れなおしたのでしたが、
その中で、「中国の古典と日本人」と題する1953年の講演録がとても印象に残っています。
「野上夫人」とは野上弥生子でしょうか(夫人とはなんともいやはやですが)、
その講演の後を受けて、
さっき野上夫人から、日本人の栄養としては、日本に古来あるものよりも、
日本の本来とは異なったものが必要であるというお話がありましたが、
これは私が平生考えていることと、全く合致いたします。
とあって、日本人の栄養となるものとして、まず西洋のものがあるが、
更にもう一つの異なった表現として中国の書物がある、と述べておられるところ。
また、日本の文学も中国の文学も、
同じように花鳥風月を詠ずるものと思われるかもしれないが、そうではない。
人は人々のために生きるという考え方は、日本では本来それほど根強いものではない、という指摘。
更に、つぎのような言葉にもインパクトを受けました。
ある人々は、過度な近代化を逆に引き戻す力として中国の書物を利用したいと考えているようだが、
真の近代に近づける力、栄養として、中国の書物が読まれることを自分は希望する、と。
教免更新講習の資料の中で、是非この文章を紹介しようと思いました。
吉川幸次郎の文章は立派すぎて、どうにも苦手意識が強かったのですが、
この講演録には違った印象を持ちました。
「野上夫人」の話に少なからず圧倒されたのでしょうか、それを要所要所で援用しながら、
「たいへんまとまりのないお話でありました。これをもって終わりといたします。」
と結ばれたこの講演録、はじめて吉川幸次郎を身近に感じました。
2020年8月21日