曹植の罪状とは

こんばんは。

『三国志(魏志)』巻19・任城陳蕭王伝の裴松之注に、
『典略』『魏略』を著した三国魏の歴史家・魚豢の評語が引かれていて、
その中に次のような句が見えています。

仮令太祖防遏植等、在於疇昔、此賢之心、何縁有窺望乎。
彰之挟恨、尚無所至、至於植者、[豈能興難。*]
乃令楊修以倚注遇害、丁儀以希意族滅、哀夫。

もし太祖曹操が曹植らを早くに抑えていたら、
この賢者の心に、情勢を窺うような機縁が生じたはずはない。
曹彰の恨みを含んだ状態でさえ、決起するには至らなかったのだから、
まして曹植にどうして動乱を起こすようなことができただろう。
それなのに、楊修は曹植に肩入れするあまり害に遭い、
丁儀は太祖の意向に迎合して一族皆殺しとなったのは、悲しいことだ。

いったい曹植は何かを「窺望」して事を企てたりしたのでしょうか。

同じ魚豢は、すでにこちらでも述べたとおり、
自分を担ぎ上げようとする曹彰に対して、曹植は言下にこれを斥けた、
そのことを、曹植自身の言葉とともに記しています。
(同巻・任城王曹彰伝の裴注引『魏略』)

曹植が兄の曹丕と跡目争いをするつもりはなかった、とは、
伊藤正文以来、文学研究の方面ではほぼ常識になっているようにも思うのですが、
先日読んだ津田論文には、それとは異なる捉え方が示されていました。
『三国志』の記述にバイアスがかかっている可能性があると思うと、
本当のところどうだったのか、疑念が生じてきました。

魚豢は、楊修や丁儀・丁廙兄弟の思惑を取り上げて、
その企図を曹植その人に発するものと解釈しただけなのかもしれませんが。

2020年9月9日

*『資治通鑑』巻69・魏紀・文帝黄初元年の条によって補う。