論文の主語

こんばんは。

論文を書いていると、どうしても「……だと私は考える。」と言いたくなる時があります。
しかし、これは教科書的にはやってはいけないことらしいですね。

まず、「私は」ではなく、「筆者は」と書くべきだとされています。
理由は、「私」という主語では客観性に欠けるからだ、と。
たしかに、漢文的な意味として、「私」という語は不適切かもしれません。
ですが、現代日本語としては、すでに十分な公共性を獲得しているとも言えるのですが。

また、「考える」ではなく、「思われる」「考えられる」とすべきだともされています。
理由は、上述の「私」と同じく、「考える」という述語では客観性に欠けるから。
ですが、どんなに資料を精査しても、最終的に判断するのは自分です。
自ずからある結論に導かれるような場合は「思われる」がふさわしいけれど、
様々な見方の中で、ある考えを打ち出す場合に「思われる」とするのはどうでしょう。
何か責任を回避しているように自分には「思われる」のですが。

他方、外国語の論文では、主語は複数形とするのがよい、と聞いたことがあります。
一人称単数形では、何かとても威張っているように感じられるのだそうです。
非常に驚きました。
自分としては威張っているつもりはなく、むしろ逆に、
広く認知されてはいない、個人的見解を述べる際に一人称単数形を用いるので。

そういえば、学生たちも教員も、やや謙遜するようなニュアンスで、
「これは私個人の意見ですが」と言うことがよくありますが、
日本語の外側から見れば、これはまるで逆の意味を帯びることになるのでしょう。

第一次資料の精読にもとづいて考察し、自分の責任においてある見解を打ち出す。
そして、その自分の考えに私的なバイアスがかかっていないか精査する。
そうすれば、その論文は十分に公共性を持つと私は思います。

2020年9月19日