記憶による引用

こんばんは。

本田済『東洋思想研究』(創文社、1987年)を図書館に入れました。
その序文に書かれていることがすごかった。

父はつねづね、「四書五経の文句は諳記していないといかん」と言っていた。
私はそれを服膺して、できるだけ諳んずるように努めた心算である。
ただそれがよい加減なものだから、時として酷い結果を生む。
経書の出典をそらで記して、本文に無い語まで入れてしまったり、……

私にはこんな基盤がないので、辞書類を引いて原典に当たる他ありません。
ただ、こうした方法にはどうしても限界があって、
一字一句がそのまま用いられているわけではない場合、
あるいは、その発想がゆるやかに踏まえられているような場合は、
その表現の出典を突き止めることが非常に困難です。

この点、昔の学者(中国の学者は今もそうでしょうか)は、
古典の様々な言葉を日常的に呼吸しているのですからレベルが違います。

そういえば、『文選』の李善注に引く文献は、
現行のテキストとの間に少なからぬ異同が認められますが、
あれも、その多くが記憶による注であるために生じた齟齬なのでしょう。
彼は「書簏(本箱)」と呼ばれた人ですから(『旧唐書』巻202・文芸伝中・李邕伝)。

もう頭を垂れるしかありません。
そうはいっても、昔の漢学者たちの後追いをしても始まりません。
自分は彼らとは別の道をいくしかないと思います。*

2020年10月8日

*膨大な記憶に換わるものが、今のインターネット環境なのでしょう。ただ、そこへのアクセスの仕方には本質的な違いがあって(以前にも同様なことをここに書いたことがあると思いますが)、まったくの代替とは言えません。だから、別の道というしかありません。(翌日に付記)