曹植の中の曹操像

こんばんは。

昨日述べたように、
曹植は「惟漢行」で、自身を周公旦に、曹操を周文王になぞらえていたのでしたが、
曹操も、自らを周公旦になぞらえていました。

曹操「短歌行・対酒」(『宋書』巻二十一・楽志三、『文選』巻二十七)にこうあります。

周公吐哺   周公は食事も中断して客人を手厚く迎えたが、
天下帰心  このようであったからこそ天下の人民は心を彼に寄せるのだ。

ここに詠じられた周公旦は、言うまでもなく曹操自身がかくありたいと願った人物像です。
曹操は、あくまでも後漢王朝の臣下として献帝を補佐する立場を取りました。
そのことを表明する上で、周公旦という人物を持ち出すことは効果的だったでしょう。

さて、この周公旦の逸話は、曹植の「娯賓賦」においても用いられ、
そこに描かれた、人を大切にする君主は曹操だと推定できるのでした(2020年8月3日)。
若き日の曹植は、自身の父を周公旦のような人物だと捉えていたのでしょう。
前掲の「短歌行・対酒」はもちろん実際に聴いていたはずですし。

すると、曹植が「惟漢行」において自身を周公旦になぞらえたということは、
その社会的立場の取り方において、父曹操のあり様を踏襲しようとしたということになります。
曹丕のように、実際的な意味において父の後継者となるのではなく、
君主たる者を支える立場を取るというその姿勢において、
曹植は父の跡を継ごうとしたということです。

ただ、その望みはあえなく潰えて実現しなかったのでしたが。

2020年11月3日