文学評論というよりも
こんばんは。
曹植「与楊徳祖書」(『文選』巻42)の語釈が、やっとひととおり終わりました。
まだ本文を訳出していないので、これはあくまでも印象に過ぎませんが、
この書簡は、よく言われるような文学評論というよりも、
肝胆相照らす友人に、文学的雑感を書き送ったもののように感じました。
(身近な文人たちに対する遠慮会釈のない批判を大いに含む)
辞賦は小道であり、自分の本懐は、藩侯としての責務を全うことにあるとする主張も、
楊修に自作の辞賦を送ることへの言い訳めいた謙遜の文脈で出てきます。
楊修は、曹植を曹操の後継者に押した、彼の側近の一人ですが、
曹植は楊修のことを、部下というより、文学的遊びでの親友と見ているように感じられます。
ところで、先に「与楊徳祖書」と曹丕の「典論論文」との関係性について、
集英社・全釈漢文大系『文選(文章編)五』に指摘するところを紹介しましたが、
これに先んじて、この問題を詳細に論ずる先行研究がありました。
岡村繁「曹丕の「典論論文」について」(『支那学研究』第24・25号、1960年)です。
特に、その成立年代の推定については非常に緻密な論が展開されています。
かつて読んだはずなのに、すっかり忘れていました。
恥じ入るばかりです。
2020年11月5日