読んで楽しい仏教説話
こんばんは。
来週の「日中比較文学論」の準備で、次のような仏教説話を読みました。
『今昔物語集』巻五「天竺ノ狐、借虎威被責発菩提心語第廿一」の類話として、
芳賀矢一が指摘している『諸経要集』巻十智慧篇求法部に引かれた『未曾有経』の記事です。*
(『諸経要集』及び『未曾有経』そのものの原典は未見。)
未曾有経云。昔毘摩国徙陀山有一野干。為師子所逐、堕一丘野井。已経三日開心分死。帝釈聞之、与八万諸天到其井側曰、「不聞聖教久処幽冥。向説非凡、願更宣法。」野干答曰、「天帝無訓不識時宜。法師在下自処其上、初不修敬而問法要。」帝釈於是以天衣接取、叩頭懺悔、「憶念我昔曾見世人、先敷高座後請法師。」諸天即各脱宝衣積為高座。野干升座曰、「有二大因縁。一者説法開化人天。福無量故。二者為報施食恩。報無量故。」帝釈白曰、「得免井厄功徳応大。」云、「何恩不及耶。」答曰、「生死各宜。有人貪生、有人楽死。有愚痴人、不知死後更生、違遠仏法、不値明師、貪生畏死、死堕地獄。有智慧人、奉事三宝、遭遇明師、改悪修善、如斯之人、悪生楽死、死生天上。」天帝曰、「如尊所誨、全命無功。志願聞施食施法。」答曰、「布施飲食済一日之命、施珍宝者済一世之厄、増益生死。説法教化者、能令衆生出世間道、得三乗果免三悪道、受人天楽。是故仏説、以法布施功徳無量。」
『未曾有経』にいう。昔、毘摩国の徙陀山に一匹のジャッカルがいた。獅子に追い詰められて、ある野山の穴に落ちた。もう三日が過ぎて、自分は死ぬのだと悟った。帝釈天はこれを聞き、八万の諸天(天の神々)とともにその穴の側にやってきて言った。「聖なる教えが久しく薄暗いところにあるとは聞かない。先に説いていたことは非凡であった。どうか更に仏法を述べられよ。」ジャッカルは答えて言った。「天帝は時宜というものをお分かりでない。法師は下にいて、自分はその上におられ、初めから敬うということを修得しないで仏法の要点を問うとは。」帝釈天はそこで天衣を取って、叩頭(こうとう)して懺悔し、「思い起こせば私は昔、世の人々が、まず高座を敷いて、その後に法師に説法をお願いしていたのを見たことがある。」諸天はすぐに各自宝衣を脱いで、積み上げて高座とした。ジャッカルは座に上り、言った。「二つの大きな因縁がある。一つ目は、仏法を説いて衆生を開化すること。福が無尽蔵であるが故に。二つ目は食べ物の恩に報いること。お返しが無尽蔵であるが故に。」帝釈天は、「穴に落ちた災厄から脱出できたのですから、その功徳はきっと大きいでしょう」といい、「どうして恩返しがこちらへ及ばないのでしょうか」と言った。ジャッカルは答えて言った。「生死にはそれぞれ時宜があります。ある人は生を貪り、ある人は死を楽しんで受け入れる。愚かな人は、死後に生まれ変わることを知らず、仏法を遠ざけ、すばらしい師にめぐり合えず、生を貪り死を恐れ、死んでは地獄に落ちるのです。知恵ある人は、三宝(仏・法・僧)を奉り、すばらしい師にめぐり合い、悪を改め善を修め、このような人は、現実の生をにくみ、死を楽しんで受け入れ、死んでは天上界に生を受けます。」天帝は言った。「あなた様の教えは命を全うできても具体的な効果がありません。どうか、食を施し、法を施すことをお聞かせください。」答えて言った。「飲食を施すのは一日の命を救い、尊い宝を施すことは一世の災厄を救い、生死を増益させます。仏法を説き教化する者は、衆生を世俗の道から救い出し、三乗の悟りへと導き、その結果、彼らが三つの悪道(地獄・餓鬼・畜生)を免れることができるようにして、衆生の楽しみを受けます。だから仏の教えは、仏法をもって功徳を無限に施すのです。」
窮地に陥ったジャッカルが、帝釈天や諸天を手玉に取って自分を救い出すように仕向けるとか、
帝釈天が、案外ちゃっかりと見返りを求めるとか、意表を突かれる展開です。
訳しながら、得も言われぬ楽しさ、解放感を味わいました。
(訳し間違って、誤解したまま面白がっているところがあるでしょうが。)
こうした異国の故事に初めて触れた中国の人々も、同じような感覚だったでしょうか。
2020年11月25日
*芳賀矢一『攷証今昔物語集 天竺震旦部』(冨山房、1970年複刊。初版は1913年)p.448を参照。