李善注をめぐる想像
こんばんは。
李善注には時々、一見不用ではないかと思われるようなものが見られます。
今日も、次のような事例に遭遇しました。
本文「伏見先武皇帝武臣宿兵、年耆即世者有聞矣」の「即世」に対して、
李善は「左氏伝、子朝曰、太子寿、早夭即世」と注しています(『文選』巻37/9a)。
本文を読み下せば、
「伏して見るに先の武皇帝が武臣宿兵、年耆(お)いて世に即く者に聞こゆる有り」、
これを訳せば、
「愚考するに、先の武帝の武将や老練の兵士は、年老いて逝去した者に高い評判がある」。
この本文で、「即世」すなわち逝去したのは、武帝に従った将軍や兵士たちです。
ところが、李善が指摘する『春秋左氏伝』昭公二十六年の記事を見ると、
「即世」の主語は、周の景王の太子寿とその母穆后で、
その後に続くのは、単旗・劉狄が私心から年少者を立て、先王の制に違ったという記事です。
本文と李善注とは、まったく文脈がかみ合っていません。
それに、「即世」という語は、『左伝』のこの部分以外にも用例は少なくないものです。
では、李善はなぜ、わざわざ上記の注を付したのでしょうか。
こういぶかしんでいたのですが、
『左伝』のこのあたりの部分を翻訳で読み、何かひっかかりを覚えました。*
それは、李善が示すとおり、「子朝」の諸侯への布告を記す部分だったのですが、
李善が敢えて「子朝曰」としたのには、意図するところがあったと考えるべきでしょう。
「子朝」は、景帝の子、王子朝。
当初、景帝は彼を立てようとしていたが、たまたま崩御し、国人は長子の猛を王に立てた。
子朝は猛を殺し、晋人は、子朝を攻めて、丏を立てた。それが敬王である。
『史記』巻4・周本紀には、このようなことが記されています。
李善はこう考えたのかもしれません。
曹植は、『春秋左氏伝』を熟読している。
だから、文脈は異なっても、『左伝』の言葉が自然と出てきたのだろう。
それに、『左伝』昭公二十六年のこの記事は、魏にもあった後継者争いを想起させる。
そのことに、曹植の意識が向かっていたとは十分あり得ることだろう、と。
曹植は自身を周公旦になぞらえましたが、
それをする以上、周王朝全般の歴史に拠って熟考していたはずだ、
と、李善は指摘しておきたかったのかもしれません。
この想像の当否はともかく、
李善の注釈態度に、単なる博引旁証とは言い切れない何かを感じたので記しておきます。
2020年12月14日
*小倉芳彦訳『春秋左氏伝』下(岩波文庫、1989年)p.269―271を参照。